聖書 ヨハネ 20:19~23   宣教題 平和があるように    説教者 中田義直

イースターの喜びを申し上げます。

イエス・キリストの復活を祝うイースターは私達クリスチャンにとって最も大切な祝いの日です。イエス・キリストが復活したことを信じる、復活信仰によってキリスト教がスタートしたといわれています。このことをもう少し丁寧に言うならば、私達クリスチャンはイエス・キリストの復活という出来事を通して示された、神様の救いが完成したことを信じています。私たちはイエス様の死と復活を通して、人間の罪が赦され、神の民として永遠の命が与えられていると信じているのです。

死者の復活、それは、とても信じることの難しいことでしょう。日曜日の朝、イエス様の葬られた墓に行った女性たちは墓の蓋が開き、墓の中にあるはずのイエス様の遺体のないことに気づきました。イエス様の遺体が墓から消えたということは、明らかな事実でしょう。マタイ福音書は当時、人々の間で、イエスは復活したというために弟子たちが遺体を墓から盗みだしたという噂が広まったと記しています。一方、キリスト教に好意的な人たちの中にも、イエスの復活は弟子たちの心の中で起こった出来事であり、歴史的な事実かどうかが問題ではないという人がいます。つまり、復活は信じている人には事実だけれども、そうでない人にとっては起こらなかったことだというのです。たしかにそのように考えるほうが、誰にとっても納得しやすいことでしょう。

イエス様の弟子たちも復活を信じることができませんでした。女たちからイエス様の遺体がなくなったという知らせを受けて、墓に行ったペトロともう一人の愛弟子も遺体がなくなったという女たちの言葉を信じることはできましたが、イエス様が復活されたとは考えることができませんでした。そして、二人の弟子は帰っていきましたが女たちは墓に残りました。そして、その女たちに復活したイエス様は姿を現し、弟子たちへのメッセージを託されました。女たちはそのことを弟子たちに伝えましたが、弟子たちは女たちの言葉を信じることができなかったようです。

その日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の中に身を潜め、鍵をかけていました。イエス様が殺されてしまったこと、そして、つい一週間前には熱狂的にイエス様のエルサレム入城を喜んでいた群衆たちが、手のひらを反すようにイエス様を十字架につけよと叫んだこと、寝食を共にしていたユダの裏切りと、仲間の裏切りにもきずかなかった自分たちのふがいなさ。何よりもイエス様にならば死をも恐れずについていけると思っていた自分たちが「死」という現実に直面したときに逃げ出してしまったという事実、そのような様々な思いが彼らの心に重くのしかかっていたことでしょう。

ユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけていた弟子たち。それは、彼ら自身の心の状態を表しているとも言えるでしょう。恐れに支配されて、彼らは心を閉ざしていたのです。そのために、彼らは仲間の女たちを通して伝えられたイエス様の言葉を受け入れることができなかったのではないでしょうか。信じることの難しい、復活という出来事よりも目の前にある現実、命が奪われるかもしれないという危機に彼らの心はとらえられていたのでしょう。そのような弟子たちの集まっているところに復活のイエス様はやってきてくださったのです。そして、彼らにの真ん中に立ったイエス様は「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくだいました。平和があるように、それは、安心しなさいという言葉です。そして、それはまず第一に神様との関係のについて語られた言葉ということができるでしょう。イエス様の死と復活により、人の神様に対する罪は赦されました。そのことは、イエス様が弟子たちに「平和があるように、安心しなさい」と語っておられるところにも示されています。イエス様は自分を捨て、イエス様との関係を否定した弟子たちのところにやってこられました。それは、自分を捨てて逃げた弟子たちをさばくためではなく、「平和があるように」と赦しを伝えるためでした。イエス様は繰り返し弟子たちに「平和があるように」と語りかけられました。そして、イエス様はこの神様の「赦し」を人々に伝えるため、弟子たちを派遣されるのです。

「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とイエス様は弟子たちに語られました。

イエス様はここで弟子たちに与えられている大きな権限を示しておられます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という赦しと裁きの権限です。ここで私たちはイエス様が弟子たちに「ななの七十倍赦しなさい」と言われた言葉を思い出すことが大切でしょう。イエス様の御心は、人々を赦しに招くことです。イエス様は多くの人々が神様の赦しを信じ、人々の心に平和が訪れること、赦しの中で安心して生きることができるようにと、弟子たちを派遣されました。そして、時と場所を超えて、私たちは、今、赦され神の民とされています。この赦しの知らせを私たちも伝えてまいりましょう。

ー祈り-

主なる神様、あなたに呼び集められ、共にイースターの礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたの御子イエス様は私たちの罪をゆるすため、十字架で血を流し、復活してくださいました。イエス様の復活により、この救いのご計画が完成したことを覚えて心より感謝いたします。

私たちは罪深いものですが、あなたは、その罪を十字架で滅ぼしてくださいました。そして、復活のイエス様はいつも私たちに「平和があるように」と語りかけていてくださいます。この主の平和があるように、安心しなさいというイエス様の言葉を受け入れ、日々歩むことができますよう、私たちに聖霊を豊かに注いでください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー

ヨハネ 20:19~23

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」