前 奏
招 詞   詩編71編1~3節
讃 美   新生 20 天地おさめる主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生377 ああ麗しきシオンの朝
主の祈り
讃 美   新生290 主の祈り
聖 書   フィリピの信徒への手紙4章2~3節
                  (新共同訳聖書 新約P365)
宣 教   「真実の協力者」    宣教者:富田愛世牧師
【二人の女性信徒】
 今日は4章2~3節という短い箇所で、内容的にも二人の女性信徒の事をよろしく頼むよという感じで、何のために書かれているのか不思議な感じがすると思います。私もこの箇所を丁寧に読んで、釈義するまで何の目的で書かれているのかサッパリわかりませんでした。また、ここに出てくる二人の名前についても、これが女性の名前なのか、男性の名前なのかすら分かりませんでした。
 ただ、分かることはエボディアとシンティケは女性の名前で、この二人の女性信徒は互いに反目し合っていたようです。教会といえども人間の集まりですから、中には気に入らない人がいても不自然ではありません。むしろ気に入らない人がいない方が不自然かもしれないくらい、人間の感情は自分勝手なのです。
 ここでは理由や内容について、聖書は何も触れていないので分かりませんが、仲の悪い女性が二人いた。もし、それだけならば、わざわざ手紙にそのことを書かなくてもよかったと思います。しかし、この二人はフィリピで伝道が始められた時から、教会に加わっていた人たちではないかと思うのです。
 使徒言行録16章11節以下にフィリピ伝道のことが記録されていますが、13節に「集まっていた婦人たちに話をした」という言葉があるので、この時、川岸にある祈りの場所に集まっていた婦人たちの一人だったのではないかと思うのです。きっと影響力のある二人だったから、何とかしなくてはいけないと思ったのでしょう。
 少し前の所ですが2章1~10節を見ると「同じ思い」とか「思いを一つにして」といった言葉が並んでいることから、教会の中に対立問題が起きていたことが想像できます。2章では、互いにへりくだるように勧めていますが、ここでもう一度「他人のことにも注意を払いなさい」という勧めを思い起こさせようとしているようです。
 そして、パウロがそのように和解することを勧める時、一つのキーワードがあるのです。それは「主において」ということなのです。私の命令だとか、クリスチャンらしくあるためにとか、そういう言い方はしていません。自分で考え方を変えるように努力しなさいとも語ってはいないのです。
 単純に「主において同じ思いを抱きなさい」とだけ勧めているのです。
【同じ思い】
 それでは「同じ思い」とはどういうことでしょうか。普通に考えるならば、同じことを考えたり、体育会系の人たちが好むような一致団結したりということと思われるかもしれません。最近は「絆」という言葉のもとに、日本人はみんな同じ思いになろう!というような風潮がありますが、ちょっと危険な感じがしてしまいます。
 パウロが語ろうとしていること、そして、聖書全体の流れからするならば「同じ思い」というのは、同じことを考えたり、一致団結したりという事とは違うように思えます。
 なぜなら「主において」という前提があるからです。人間の思いであったり、常識という枠にはめて考えるような「同じ思い」ではないということなのです。
 神は1種類の人間だけを創りませんでした。多種多様な考え方、価値観、感じ方の人間を創ったのです。
 こういう話をすると、多種多様な考え方の中には神を否定するような「罪」といわれる考え方もあるけれど、それも神が作ったのかという質問が必ず出てきます。神が罪を作ったとするならば、それは「罪」という名前がついていても「罪」ではありません。神の意志に反することを「罪」と呼ぶわけですから。
 同じように考え、感じることではなく、同じ神によって創造され、愛されていることを認めるという点において、同じになることが大切なのです。
 イエスはマタイ7章12節で「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と語ります。
 相手を受け入れるという思いを「同じ思い」として持つことが大切なのです。
【支えてあげてください】
 さらにパウロは真実の協力者に向かって、二人を支えてあげてくださいとお願いしています。この真実の協力者という言葉が何を意味しているのか。そして、この二人がどのような人物だったのか、何も分かりません。
 ただ、この二人については、女性であり、初めにも言ったように、エボディアとシンティケという名前であるという事が知らされているのですが、これはとても重要なことだと思うのです。いつも言うように聖書が書かれた時代は男尊女卑の時代で、女性は数にも入れられていない時代でした。
 しかし、そのような時代にフィリピ教会では重要な役割を担った二人だったのです。パウロがフィリピの町に入り、祈りの場所である川岸に行った時、そこに集まっていた婦人たちに福音を伝えました。そこにいたであろう二人です。パウロの活動を支えた二人です。そして、パウロがフィリピを去った後、祈りをリードし、福音を語っていたのではないでしょうか。
 真実の協力者、エボディアとシンティケ、そして、クレメンスや他の協力者たちについて、分からないことが多いのですが、二つの点について分かると思うのです。
 それは、パウロと共に福音のために働いたという事、そして、「命の書」に名前が記録されているという事なのです。
 クレメンスという名前については、ローマ教会の長老の一人に同じ名前の人がいたようなのですが、ここに登場するクレメンスと同一人物であるという確証はないようです。確証がないのに、ローマ教会の長老だと決めつけるわけにはいきませんから、この人についてもわからないとしておいた方がよいのではないかと思います。
 パウロが、その手紙の中で名前を記録したり、その存在について記録したり、そういう同労者、仲間がいたという事はとても大切なことだったに違いありません。そして、それらの人々が「命の書」に名前を連ね、パウロと共に福音宣教の働きを担ったという事は間違いないことではないでしょうか。
【真の協力】
 これらの断片的な事柄から想像できることは、一生懸命伝道し、奉仕し、それなりの結果を得た人々がフィリピ教会の中にはいたという事です。
 しかし、ある時期なのか、出来事なのか、それは分かりませんが、とにかく何かによって共に働くことが出来なくなってしまったのです。
 ここに一つの落とし穴があるのかもしれません。私たちは何かに一生懸命になると、他のことが見えなくなってしまうことがあります。そして、何かをしているという事、自体が目的にすり替わってしまうことがあるのです。そのような時には、少し立ち止まって客観的に現状を見る必要があります。
 何かをすることも大切ですが、その前に「あなたがいる」ということ、これ以上に大切な事はないのです。
 教会は奉仕を大切にしますが、奉仕は目的ではありません。
時々「私は礼拝に出るだけで何も奉仕が出来ないので、来ない方がよいかも知れません」とおっしゃる方がいます。とんでもないことです。私は礼拝に来ることが最大の奉仕だと信じています。これ以上に大きな教会に対する奉仕はないと言ってもいいくらいだと思っています。もちろん、ソーシャルワーカーと呼ばれる仕事をしておられる方は日曜日が勤務日になることがありますから、そのような仕事の人を否定しているわけではありません。
 礼拝に出るだけで帰ってしまうということに後ろめたさを感じる必要はありません。いいじゃないですか。イエスは喜んでいると思います。礼拝に来るという事は、イエスに会いに来ているのですから。
 後のことは、応答であり、結果なのです。何かするということは神の愛を受ける条件ではありません。何かをしたとしても、しなかったとしても、いづれにしても神はあなたを愛し、支えてくださいます。そのような神の愛への応答が礼拝するという事なのです。

祈 り
讃 美   新生575 栄えのみ神よ
主の晩餐  
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏