前 奏
招 詞   詩編121編1~2節
讃 美   新生 20 天地おさめる主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生330 み使いの歌はひびけり
主の祈り
讃 美   新生281 み座にいます小羊をば
聖 書   フィリピの信徒への手紙4章8~9節
                         (新共同訳聖書 新約P366)
宣 教   「神は共にいる」    宣教者:富田愛世牧師
【終わりの挨拶】
 前回は「もう一度、喜びなさい」というタイトルをつけて4節から7節までを読みました。パウロは大切なこととして、しつこいくらい何回も繰り返し「喜びなさい」と語りました。さらに5節では「主はすぐ近くにおられます」という言葉が語られました。私はこの言葉をインマヌエルの信仰に結び付けましたが、特別違和感はなかったと思います。
 しかし、前回もお話したように、当時の人々にとって「主はすぐ近くにおられます」という言葉はイエスの再臨を意味した言葉だったわけですから、インマヌエルに結び付けることはしなかったと思います。このように現代社会に生きる私たちと、この手紙が書かれた当時の人々では、同じ言葉であっても、その捉え方が違うという事が起こるという事は覚えておかなければなりません。
 今日は4章8~9節を読んでいただきましたが、この手紙を終えるにあたって、当時の一般的な勧めをしようとしています。それはクリスチャンとして、こうあるべきという前に、人としてどうあるべきかという事の確認のようです。
 保守的なクリスチャンの中には、クリスチャンと呼ばれる人は一般の人よりも道徳的に優れていると思い込んでいる人がいます。そのような人にとって、ここでパウロが語るようなことは確認する必要がないと思ってしまうようです。
 しかし、現実を見ると頭をかしげてしまうようなことがたくさん起こります。先週から教会学校の学びがノアの箱舟の箇所になりましたが、その前にノアの箱舟を描いた映画があったので参考までに見てみました。
 そこで描かれているノアは、神の前に絶対的に服従する姿勢を貫いていました。しかし、そのことの故に家族を傷付けてしまうのです。同じことが教会にも起こることがあります。教会は信仰を前面に出して、人を傷つけてしまうことがあります。
 しかし、そこで持ち出される「信仰」はイエスの語る福音ではなく、律法主義にすり替わっていないか注意しなければなりません。イエスの語る福音は人を生かし、律法主義に基づいた「信仰」は人を傷つけることがあるのです。
【心に留める】
 8節で並べられている「徳や称賛に値すること」は、当時の一般的な勧めであり、ギリシアの哲学者、思想家たちによって推奨されたものだと言えます。
 パウロはそれらを心に留めなさいと語ります。「すべて真実なこと」とは真理のようなものだと思われるかもしれませんが、ここで語られるのは、そこまで突き詰めたものではなく「偽りではないこと」程度のことのようです。しかし、現実の社会を見ていくなら、特に政治の世界を見ていると「偽りでないこと」がどれくらいあるのだろうかと疑ってしまうかもしれません。
 福島では原発からの汚染水が垂れ流されるようになってしまいました。政府は汚染水について「処理水」といういい加減な名前を付け「安心、安全」だと言っていますが、2011年まで、原発は安心、安全だと言われてきました。
 次に書かれているのは「すべて気高いこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと」と続いていきますが、これらも突き詰めて考えるようなものではなく、それこそ一般的な気高さ、清さ、愛すべきこと、名誉なことなのです。つまり、その後に書かれているように「徳や称賛に値すること」なのです。
 これら一つひとつのことがどうなのかというより、大切なことは、それらを心に留めるという事なのです。心に留めるとは考慮する、考える、推論するという事で、言われたことを言われた通りにすることではありません。
 律法主義的な考え方ならば、言われたことを言われたとおりにすれば、それでいいわけです。ある意味で思考停止状態になった方が、律法主義的になるにはうってつけだと言えるのです。
 パウロは様々な場面で律法主義と戦っていますが、ここでも同じように律法主義に対して、自由な信仰表現を語ろうとしているのです。ですから、信仰するという事は言われた通りにすることではありません。
 特にバプテスト教会が大切にしている信仰は自分の頭で考え、心で感じ、それを表現することではないでしょうか。私は「牧師」としてここに立たせていただいていますが、私が語ることが全て正しいかと言うと、そうとは限りませんし、このメッセージを聞きながら、「私はそう思わない」という人がいても良いのです。もしかすると「私はそう思わない」という人がいなければならないかもしれません。それくらい「信仰」は自由なものであって良いのではないでしょうか。
【わたしから】
 9節でパウロは「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と語ります。
 パウロにとってフィリピの教会は特別な教会でした。前にもお話したと思いますが、パウロは伝道旅行の中で、小アジアから初めてヨーロッパへと渡った時に立ち寄った地がフィリピでした。
 そこに滞在した期間はそれほど長くはなかったようですが、福音を語ることによって、牢獄に囚われるという事件も起こりました。しかし、神は囚われてしまうという負の出来事を180度変えられるお方で、牢獄の獄吏とその家族が救われるという出来事も経験したのです。
 フィリピ教会の人々は、パウロの語る福音を聞き、パウロの一つひとつの行動、つまり生き様を見、神のなさることの素晴らしさ、偉大さを身をもって知ったのです。
 だからこそ、学び、受け、聞き、見るだけでなく「実行しなさい」と勧めているのです。何かをしなさいと言われると命令されているような気がするかもしれません。しかし、フィリピ教会の人々にとって、これらの言葉は決して命令ではなかったと思うのです。パウロと一緒に経験したことを、もう一度、今度はあなたたち自身で経験してくださいという勧めなのです。
 信仰ということについて考えるならば、当時も現代も同じことが当てはまるのかもしれません。信仰を頭で理解しようとする人が多いのです。特に現代日本のキリスト教は知識として聖書を理解しようとする傾向が強いのかもしれません。もちろん、それが悪いという事ではありません。
 しかし、信仰は評論家のように、第三者の立場から見聞きするものではありません。知識として理解したとしても、それを自分の頭で考え、自分の生活に当てはめ、イエスに目を留めていくことが大切なのです。
 また、実行しさないというと「行為」だけが強調されそうですが、そこに到る一つひとつの段階が大切なのです。
【神は共にいる】
 9節の続きを読むと「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」と書かれて締めくくられています。前回読んだ7節の締めくくりと同じような言葉が繰り返されています。
 フィリピの手紙では「喜び」が繰り返されていますが、これもパウロのようにしつこく言うならば、楽しいことがあったとか、自分にとって都合の良いことが起こったというような上辺だけの喜びではありません。
 キリストにある喜びなのです。イエスに出会うことによって、今まで自分を縛り、不自由にしていた宗教的な律法主義から解放されたという根本的な喜び、主に在る喜びを指しています。
 そして、その喜びが起こされるという事は、その陰で平和の神が共にいるという事が繰り返し、起こされているという事なのです。
 平和の神が共にいてくださるという事に勝るものはないのではないでしょうか。そして、そこには喜び以外、何もないのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生435 山辺に向かいてわれ
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏