前 奏
招 詞   詩編23編1~3節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生523 主われを愛す
主の祈り
讃 美   新生585 救いのぬし主よ
聖 書   コリントの信徒への手紙一12章18~26節
                          (新共同訳聖書 新約P316)
宣 教   「互いに」    宣教者:富田愛世牧師
【こどもの成長を感謝する】
 今日は「子どもの成長を覚える日」の礼拝として、この礼拝を献げているわけですが、日本ではこの時期「七五三」という伝統行事があり、多くの人たちは7歳、5歳、3歳の子どもを神社に連れて行き、そこで祈祷してもらうわけです。
 そういう意味では、異教の習慣である七五三に似た行事を教会で行うのは、いかがなものかという批判があると思います。しかし、日本の教会では、独自の解釈の中で、福音に照らして幼児祝福式、子ども祝福式を行うようになったと思います。ただし、日本以外の諸外国で「子ども祝福式」があるとは聞いたことがありません。
 似たようなものとして「献児式」と呼ばれるものはあります。また、混同されるものとして「幼児洗礼」があります。
 幼児洗礼について、私たちのバプテスト教会ではカトリック的な幼児洗礼は行いませんが、そもそもの起こりとしては幼い子どもの生存率の低かった時代に、自分の子どもが神の救いに与ってほしいという親の切実な気持ちから始まった行為ですから、単純に非難できることではないと思います。
 プロテスタントの教会でも幼児洗礼を行う教会はあります。ただ、カトリック的な意味合いではなく、親の信仰告白であり、祈りとして行われるようです。そこには子どもの命は親のものでも、子どものものでもなく、神の所有物だという信仰告白があります。さらに、子どもは神からの賜物であり、委ねられたものである。だから、神の御心に沿って育てますという決意表明のようなものだという事です。このような考え方は献児式とも共通するのではないでしょうか。
 もちろん、献児式をしてもらった子どもも、そういう意味での幼児洗礼を受けた子どもも、ある程度の年齢になった時、自分の口で信仰を告白し洗礼、バプテスマを受けることになるのでしょうが、そこには子どもの意思があるわけですから、親の思い通りにはならないのだろうと思います。
 そこで、今日は神からの賜物としての子どもたちの存在を考えるために、神からの賜物ということを聖書から見ていきたいと思い、この箇所を選ばせていただきました。
【聖霊の賜物を受けた人々】
 コリントの信徒への手紙一12章では聖霊の賜物という事が大きなテーマとなっていますが、その背景として、コリントという町について、また、そこに暮らしていた人々の習慣や思想はどのようなものだったかという事をもう一度、確認しておく必要があると思います。
 イメージ的に、今から2千年前の事だから、人々は純粋で素朴なのではないか。現代文明に見られるようなお金や地位、名誉に対して汚い考え方をする人がいないように思うかもしれませんが、それは大きな間違いで、現代の日本や先進国と何も変わらないくらい、闇の部分のある社会だったと思われています。
 そういう意味で現代と変わらない、唯物主義、効率主義という価値観が社会の大勢を占めていたのです。そういう中で、聖霊の賜物という事が話題となっているのです。
 このような背景の中でクリスチャンとして信仰を告白するのはとても勇気のいる事だったと思います。そして、コリント教会にはそのような霊的に優れた人々がたくさんいて、彼らは様々な聖霊の賜物を主から受け、それを用いて福音宣教の業をすすめていました。
 その働きによってコリント教会は成長していったようです。しかし、何かのきっかけによって、聖霊の賜物を受けた人々の中に分裂が起こってしまったようです。そこにはこの後13章で語られるように、愛の欠如という事があったのです。
 効率主義という価値観から、抜け出すことが出来ずに、聖霊の賜物を自分の働きの成果か何かであるように思い違いをしてしまったのではないでしょうか。
 具体的な聖霊の賜物については、27節以降に書かれていますが、その他にも、様々な種類の賜物があります。ローマの信徒への手紙12章、エフェソの信徒への手紙4章にも具体的なリストがあります。
【賜物を持つ責任】
 私たちは霊的に優れ、聖霊の賜物を持っている人を信仰的な人だと思ってしまいますが、必ずしもそうではないことをこの箇所は指摘しています。
 聖霊の賜物とは、特技や能力ではありません。キリストの体である教会を建て上げるために用いられるものなので、教会を建てあげるために用いていれば問題は起こりません。しかし、内向きになり、人の賜物と比較するようになると、大きな問題となるのです。
 そして、ここで注意しなければならない点があります。それは、聖霊の賜物に優劣はないけれど、働きを進めていくためには優先順位があるという事です。パウロはこの箇所で教会を人間の体にたとえて語ります。その中でどれも重要な部分ですが、指令系統、伝達系統、そして、具体的に動く部分があると語るのです。
 賜物は人それぞれの分に応じて与えられます。その人に与えられている働きが手や足ならば、その働きをすればよいのです。しかし、手や足が自分は頭になりたいとか、頭のほうが優れていると考えるのは間違いであり、効率主義的な価値観から抜けきれていないという事になるのではないでしょうか。
 私たちが自分に与えられている賜物を用いるならば、益々豊かにされ、さらに別の賜物も与えられる可能性があるのです。しかし、用いないなら取り去られるのです。つまり、賜物が与えられるという事は、用いても用いなくても、どっちでも構わないという事ではなく、用いなければならないという責任も与えられるのです。
 人間の体を維持するためには、血液によって栄養を体の各部分に届けなければなりませんが、血液は単体で動く事はできません。そのために心臓がポンプの役割を受け持ちます。そして、心臓は脳からの指令によって動くのです。これらは、どれが一番重要かと言う事ではなく、まさにチームワークとして働くものなのです。
【違いを認める】
 一般的な社会では一致するために内側を固めます。しかし、パウロは内側を固めるのではなく、外に出て行き、伝道するという方法をとっています。フィリピの信徒への手紙3章14節に「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と書かれています。
 前に向かって目標を見るなら、同じ形の目標を見ることができますが、内に向かって見るなら右側、左側、前側、後側というように違った形の目標になってしまうのです。そして、同時に他の人を見てしまう事になり、比較しようとしてしまうのです。
 自分の働き、自分の賜物に自信をもつことは大切ですが、絶対化してはいけません。自分の働き、賜物を絶対化するとどうなるかというと、目は手になれないのに、そんな事は棚に上げて、手に向かって「目のほうが重要なのだから、目になりなさい」と言ってしまうのです。そこに分裂が起こるのです。目と手は違う働きをしますが、同じ目標に向かっていくなら、互いに助けあうことができるのです。
 互いが違うからこそ協力した時に豊かな広がりという事が起こるのではないでしょうか。違う価値観、違う発想の人の言葉に耳を傾けるならば、新しい発見があります。しかし、耳を傾けようとしないで、自分が絶対、相手は間違っているとするならば、豊かな広がりを経験することは出来ないのです。
 また、今日は子どもたちの成長を感謝する日の礼拝となっています。子どもたちは未熟だから一人前になるまで待たなければならないのでしょうか。それはイエスに叱責された弟子たちの姿です。何を持って未熟というのでしょうか。大人は子どもより、多少長く生きてきたので経験してきたことが多いという程度のことではないでしょうか。
 子どもには、子どもの感性、思い、やり方があるのです。それを尊重した上で、さらに良い方法、やり方があるならば、伝えてあげればよいのです。それを用いるか用いないかは、その人の自由なのですから。
 教会というキリストの体、信仰共同体は、様々な人が集まってくる事を喜びます。男も女も、幼児も高齢者も、健康な人も病を抱えている人も、それぞれが主によって生かされている事を知るならば、感謝できるはずです。そして、一人ひとりが聖書の言葉に生かされるならば、互いを認め、受け入れて、それぞれの賜物を喜びあえるように変えられるのです。そこにキリストの教会が建てられるのです。

祈 り
讃 美   新生665 愛を伝えよう
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏