前 奏 招 詞 エフェソの信徒への手紙4章14~16節 讃 美 新生 3 あがめまつれ うるわしき主 開会の祈り 讃 美 新生 70 すべしらす神よ 主の祈り 讃 美 新生213 われらに伝えよ 聖 書 創世記37章18~22節 (新共同訳聖書 旧約P64) 宣 教 「悲しみの光」 宣教者:富田愛世牧師 【言葉のイメージ】 皆さん、あけましておめでとうございます。元旦礼拝に来られた方には二度目の挨拶になってしまいますが、今日までが松の内ですから、一般常識として今日まで、この挨拶は使ってもよいそうです。ただ、一般常識といいましたが、この習慣は東日本に限られるもので、西日本では15日までを松の内としているそうです。 私は大学を出て神学校に進み、牧師をしているので、若いころ、よく壮年の方から「富田は社会人の経験がないから、一般常識を知らない」と言われました。その頃はそうなのかなと思っていましたが、牧師という働きは社会人には入らないのでしょうか。そもそも社会人とは何を意味しているのでしょうか。 学生は社会人ではないのでしょうか。主婦は社会人ではないのでしょうか。一般的な定義としては「誰かの保護下にない」という事が基準になっているそうです。ただ、この「保護」という事も経済的な保護でしかないと思うので、やっぱり経済優先社会が生み出したものでしかないのです。学生も主婦もサラリーマンもみんな社会を形成しているのですから、社会人と言っても良いと思うのですが、どこかで自分の優位性を強調するために、そのような言い方になったのではないかと思わされます。 そのような曖昧な定義の中で「一般常識」と言われるものが作られたわけですから、そこから解放される必要があるのではないかと思うのです。 なぜ、こんなことを言うのかというと、今日のタイトルを見ると「悲しみの光」となっていて、多くの人は違和感を持ったり、意味が分からないとおっしゃるのではないかと思います。その通り、これは矛盾した言葉の合成ですから、違和感を持って当然なのです。 光という言葉からイメージするものは、太陽や明るさという、肯定的で積極的なものだと思います。それに対して、悲しみからイメージするものは、マイナスイメージだと思うのです。 悲しみの光というタイトルは、このように相反する言葉を組み合わせているので、矛盾しているように思えるでしょうが、聖書にはそのような矛盾がたくさん登場するのです。そして、その中に福音の本質が隠されていることが多いのです。 【兄弟げんか】 言葉を聞いた時、そこからイメージするものは、今言ったように、一般常識の範囲の中でのイメージだと思います。もちろん、そのようなイメージが間違っているとか、悪いとか言っているのではありません。当然のものですから、それでよいわけですが、時には、そこから自分を解放しても良いのではないかと思うのです。 さらに、聖書を読む時には、21世紀の日本の中の関東地方という限定された常識から解放されて読む必要もあるのではないかと思うのです。特に今読んでいるヘブライ語の聖書は、紀元前8世紀から1世紀にかけて書かれたと言われていますが、言葉による伝承としては、その前から伝えられていたわけですから、現代とは異なった「常識」の中で書かれたはずです。 これも常識が良いとか悪いとかではなく、常識から解放された読み方もあるという事を覚えておく必要があるのだと思うのです。 今日の聖書ではヤコブの名前がヤコブだったり、イスラエルだったりと、一貫性がありませんが、創世記35章10節で神は「イスラエルがあなたの名となる」と宣言されたので、イスラエルが正式名称なのです。ただ、聖書が編集される前の元資料となるものが、いくつかあるので、その違いということで受け止めてもらえればよいと思います。 創世記37章ではイスラエルの子どもたちの関係性が記録されていますが、それこそ常識的に考えるなら、家族や兄弟は、皆仲良く暮らすことが理想だと思うのです。ところが聖書の中に登場する家族や兄弟は、必ずしも仲良く暮らしているわけではありません。意外と多くの場合、お互いに反目しあっているのです。 ここでも、末息子のヨセフは、年寄り子だったので、特にかわいがられていたようです。そして、兄たちはヨセフの事を疎ましく思っていたようです。兄弟のいる人にとって、兄弟げんかとは、たわいもないものかもしれません。 しかし、最近のニュースを見ると、殺人事件にまで発展していることがあり、恐ろしい時代になったと嘆く方もいると思います。しかし、兄弟や家族の間で事件が起こるというのは統計上、かなり高い割合で起こっているようです。 そして、聖書にも人類が誕生した時から、家族の間で殺人事件が起こっていたという事が記録されているのです。もちろん、そういった事件は人情的にも、倫理的にも赦されないことですが、現実を見ると、そのようなことばかりが起こっているのです。 【神の計画と人の思い】 創世記に書かれている天地創造の物語の中で、最初の人間アダムとエバが造られました。この二人の間にカインとアベルという兄弟が授けられましたが、この二人の間で人類最初の殺人事件が起こるのです。 よく言われることですが、神は何でもできるなら、なぜ、人殺しをしないような人間を創らなかったのかと質問されます。確かに言われる通りだと思うのです。ただ、神が人間を創った時、互いに殺し合うように創造したのかというと、そうではないと思うのです。互いに愛し合うように創造されたはずです。 そのような人間に罪が入り込んだことによって、互いに愛し合うだけでなく、ねたみや憎しみの感情を抑えることが出来なくなってしまったのではないでしょうか。 そして、ここに神の計画と人の思いとの溝があるのではないかと思うのです。人はみな自分の常識の根底に自分の価値基準を持っています。一般常識だと思っていても、その一般常識を受け入れるためには、自分の価値基準に照らして、許容範囲に中にあれば、それを一般常識として受け入れ、許容範囲の中になかったとするなら、受け入れることが出来ないのではないでしょうか。 おそらく、ほとんどの人は自分の価値基準が標準的だと思い込んでいると思います。もちろんそこには他人との間で、最大公約数的な共通点はあるかも知れませんが、細かく見ていくならば、ひとり一人、みんな違っていて当然なのです。 神の計画の中で創られた私たち人間は、良い存在として創られました。そして、私たち人間に与えられた感情も良いものとして与えられているはずです。人を愛し、いたわるという感情は当然良いものとして受け止められます。しかし、憎しみやねたみは悪い感情として受け止められることが多いと思います。それでも、神が与えてくださった感情だと思うのです。 そして、その悪いと言われる感情も多くの場合、抑えることが出来るのです。しかし、時には抑えられなくなる。そのスイッチや爆発した時の力に問題があるのです。つまり、罪によって抑えられなくなるスイッチの数や力が左右されてしまうのではないでしょうか。残念ながら、それが事実なのです。 【逆境から光へ】 イスラエルの子どもたちの話しに戻って見ていくなら、神は何故、ヨセフが兄弟の恨みを買って、エジプトに売られるような事を赦したのでしょうか。 ここで「たられば」の話しをしたとしても、どうにもなりません。現実としてヨセフはイスラエルにとって、年をとってから生まれた子どもでした。ですから、特にかわいがられた、これは事実です。 また、イスラエルにはラケルとレアという二人の妻がいました。創世記29章15節に「ヤコブの結婚」という小見出しが付けられていて16節から具体的な内容が記録されています。そこを見るとヤコブの叔父であるラバンにはレアとラケルという二人の娘がいて、ヤコブ、つまりイスラエルは妹のラケルを妻にしたかったようです。しかし、叔父のラバンは姉より先に妹を嫁がせる訳にはいかないと言って姉のレアを初めに嫁がせ、その後、ラケルを嫁がせているのです。 イスラエルにとっては最愛の妻はラケルだったのです。そして、11人の子どもの内、ヨセフだけがラケルの子どもだったのです。現代の私たちにとって、親としては、子どもに対して平等に接しなければならないと思うのではないでしょうか。しかし、イスラエルは平等に接していなかったようなのです。これも良いとか悪いという事ではなく、イスラエルと子どもたちの関係の現実だったのです。 神の計画された目的は、必ず達成されます。ヘブライ語聖書の世界観の中では、イスラエルの民が神の祝福を受けるという事が、神の目的だとされています。そして、このような物語を読むならば、様々な苦難を乗り越えなければ、神の祝福を受けることが出来ないかのように受け止めそうですが、そうではないと思うのです。 神の計画と目的がどのようなものだったのかは、私たちには分かりません。しかし、その目的が達成される過程において、人間が関わる時、従順に従うならばスムーズに事が運ぶのかもしれませんが、残念ながらそうはならないのです。 自分が、自分だけがという「自我」という罪によって、神の計画を邪魔してしまうのです。しかし、人間が邪魔をしたからと言って、神の計画がなくなってしまうのでしょうか。そんなことはありません。人間が邪魔をして、その計画が台無しになったとしても、その現実を受け入れ、その中で最善の道へと導いてくださるのが、神の計画なのではないでしょうか。 祈 り 讃 美 新生550 ひとたびは死にし身も 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ(A) 祝 祷 後 奏
2024年1月7日 主日礼拝
投稿日 : 2024年1月7日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー