前 奏
招 詞   マタイによる福音書6章34節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生484 救い主 王は
主の祈り
讃 美   新生415 わが主よ ここに集い
聖 書   出エジプト記12章31~42節
                    (新共同訳聖書 旧約P113)
宣 教   「悲しみの出発」    宣教者:富田愛世牧師
【全体像】
 出エジプト記を読み始めて、今日で3回目となりますが、いよいよエジプトから脱出するという場面になります。神はイスラエルの民の叫びに答え、奴隷生活から解放し、乳と蜜の流れる地、カナンへと導くという物語です。イスラエルの民にとってカナンは約束の地、自由の地なのです。
 今日は12章を読んでもらいましたが、前回読んだ6章以降には、心をかたくなにしたファラオに対して、神がイスラエルの民を脱出させるために9つの災いを下したことが記録されています。
 そして11章で最後の災い、つまり10番目の災いを下すと書かれています。そして、イスラエルの民に対しては、この災いから逃れるための「奇跡」が与えられるというのです。それが過ぎ越しと呼ばれる行為なのです。
 さて、先ほどは時間的な制約があるので31節から読んでいただきましたが、少し前にある21節を見ていただきたいと思います。そこにはイスラエルの長老たちへの命令が記録されています。
 モーセは長老たちを集め、神の下す災いを避けるため、これからすべきことを指示しているのです。ただ、これからすべきことというのは気持ちの良いことではありませんでした。それは、犠牲として小羊を屠り、その血を鉢に入れ、ヒソプという植物の葉を使って、家のかもいに塗りなさいというものでした。
 この時には、まだ誰にも分からなかったことですが、この儀式が後のイスラエルの民にとって非常に大切な、神によって守られたことの証しとなる「過ぎ越しの祭り」の原型になるのです。
【初子の死】
 モーセがエジプト王ファラオに対して願ったことは、イスラエルの民を解放することでしたが、それは、ファラオにとって大きな損失でした。前回、ファラオがイスラエルの民を奴隷にした理由として、イスラエルの民の数が増えたことに対する危機感からだったと話しました。
 人口増加に対する危機感だけならば、国から追い出せばよかったのですが、ファラオにとっては軍事的な脅威にも感じていたようなのです。ですから、追い出すのではなく、力を弱めたいと考え、奴隷として労役に服させたのです。ですから、労働力として、イスラエルの民を失いたくなかったようなのです。
 先ほど9つの災いについてお話しましたが、7章から10章までにそれが記録されています。第一はナイル川が血のようになる「血の災い」、次がエジプト中に蛙が大量発生する「蛙の災い」、ぶよが大量発生する「ぶよの災い」、アブが大量発生する「アブの災い」、エジプト中の家畜が病気になる「疫病の災い」、エジプト人と家畜に腫物が出来る「腫物の災い」、雹が降ってくる「雹の災い」、イナゴが大量発生する「イナゴの災い」、そして、エジプト全土が三日間、暗闇に覆われてしまう「暗闇の災い」と続いていきました。
 しかし、ファラオの心は頑なにされ、それらの災いが下されても、イスラエルの民を去らせることはしませんでした。そして、29節を見ると10番目の災いが現実となりました。それはエジプト中の初子が殺されてしまうという出来事でした。これにより、その夜、エジプト中に泣き叫ぶ声が響き渡ったというのです。
 ファラオの心が頑なになったのは、神がそのようにされたからと書かれていますが、最終的にはファラオ自身の決断で防ぐことのできた出来事だったのではないかと思うのです。
 しかし、ファラオは頑なな心を持ち続けました。そして、ここには一つの大きな教訓のようなものが示されています。それは国の指導者が神に反逆する時、小さな者の命が犠牲になってしまうということです。これは聖書の世界だけでなく、現代の世界情勢の中でも証明されてしまう悲しく、愚かな現実なのです。
【エジプト人の対応】
 この出来事によってファラオはイスラエルの民をエジプトから去らせるように命じるのです。そして、イスラエルの民は旅支度を始めるのですが、ここでも不思議なことが起こっています。それは、エジプト人たちの対応なのです。
 11章1~2節を見ると最後の災いが下される前に、神がモーセに告げている言葉が記録されています。そこにはこう書かれています。
 「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」このように記録されています。さらに「主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。」とあるのです。
 ファラオ以外のエジプト人はイスラエルに対して好意を持っていて、イスラエルが脱出する時、餞別として金銀の装飾品や衣類を贈っているのです。これは神がそうさせたという事ですが、イスラエルの民がエジプトで奴隷として働かされているのを、エジプトの一般庶民は同情してみていたという事だと思うのです。
 そして、イスラエルの民も自分たちを苦しめているのが、隣りに住んでいるエジプト人ではなく、エジプトの政権、ファラオを中心とした権力者たちだという事を理解していたのです。
 これもまた、太古の昔から現代にいたるまで変わらないことで、エジプトの民意とファラオを中心とした権力者たちの思いに大きなズレがあったという事実なのです。
【エジプトからの脱出】
 そして、37節の前には「エジプトの国を去る」という小見出しが付けられていますが、いよいよエジプトを脱出する時となりました。その時、一般のエジプト人たちは贈り物を送り、その門出を祝福しているのです。
 36節には「分捕り物とした」と書かれていますが、あまり良い表現ではないように感じます。前後の文脈からすれば、分捕ったわけではなく、エジプト人たちからの厚意の贈り物だと思いますが、家父長制という社会の中で使われた表現としては仕方のないことなのかもしれません。
 さらに続けて読んでいくと37節には「そのほか、種々雑多な人々も加わった」と記録されています。聖書を読んでいるとイスラエルの人々や民という表現とヘブライ人という表現が入り混じっていることに気付かれると思います。
 チョット横道にそれますが、イスラエルという名前は「神の支配」とか「神と争う者」という意味だと言われていますが「エル」という言葉はカナンの「神」の名前なのです。イスラエルの神である「ヤハウエ」ではなくカナンの神の名が使われているのは不思議な気がします。しかし、ここに本来の神の姿が隠されているようにも思えます。
 話を戻して、ヘブライ人という名前には「境界を越える」という意味があります。最近「ボーダーレス」という言葉が聞かれるようになりましたが、様々な境界線がなくなっています。ヘブライ人という名前は37節にあるように境界線を越えて「種々雑多」な民族、立場、性別の人々が含まれているという事なのです。
 出エジプトという出来事は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から解放され、自由を得たというだけではなく、同じように虐げられていた種々雑多な人々が、同じような恵みに与ることのできた物語へと、豊かな広がりを見せているのです。

祈 り
讃 美   新生496 命のもとなる
主の晩餐  
献 金
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏