造られ、生かされている者として 牧師 中田義直
7月、8月と教会学校では、旧約の「創世記」を学んできました。取り上げられてきた「創世記」の前半は「神話的内容」と言われることがあります。創造の物語やノアの箱舟、バベルの塔など歴史的な事実ではないと考えられてきたからです。しかし、考古学の発見などから、聖書の記述の背景には実際に起こったことがあった、と考えられるようになりました。
ところで、学んできた箇所に記されている内容は、神話的という以上に哲学的な内容といえるでしょう。「哲学」の重要なテーマは「人間とは何か」ということだからです。例えば、人間は根源的に良いものなのか、悪いものかという、いわゆる「性善説」か「性悪説」かというのは哲学の学びの基本的なテーマです。また、私たちは人と言葉が通じ合い、心が通い合うということをとても価値のあることと考えています。ところが、バベルの塔の物語では、言葉が通じ合い、心が通い合うこと以上に「何を求めて人は生きるのか」ということが問われています。言葉が通じ合い、心が通い合っても目指す方向を間違えると、人間の世界に「混乱(バベル)」が生じることがこの物語には示されています。
すでに暦は秋。天候不順で不安はありますが、実りの季節を迎える時、
「人間とは何者か」という哲学の問いの前に、私たちクリスチャンは命の糧を与えられていることに感謝しつつ、神様によって造られ、生かされている「私」であることをあらためて覚えたいと思うのです。