聖書 ヨハネ福音書 20:11~18 宣教題 復活の主との出会い 説教者 中田義直
私たちの人生にはさまざまなことが起こります。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、つらいこと等さまざまです。日常の一こまとして何気なく通り過ぎていく出来事もあれば、思いもよらない出来事が殴りこんでくるような、そのような衝撃を受けることもあります。そのような出来事を前にするとき、私たちは呆然と立ち尽くしてしまったり、感情の激しい揺れに揺さぶられたり、じたばたともがくこともあるでしょう。信じたくない事実もあれば、信じられないような出来事に遭遇することもあるでしょう。
使徒たちをはじめとするイエス様の弟子たちは、信じたくない出来事、受け入れたくない事実に直面しました。仲間の裏切りによりイエス様が捕らえられ、十字架に引き渡されたイエス様の死という出来事の前に弟子たちは戸惑い、自分たちの身を守ることに必死となり、イエス様を見捨ててしまったという自分自身の現実、どれも受け入れたくない事実であり、信じたくない出来事だったでしょう。
金曜日の日没の安息日の始まりを前にイエス様の遺体はあわただしく葬られました。そして、安息日があけた日曜日の朝早くイエス様に付き従っていた女たちはイエス様の亡骸を整えるために、墓にやってきました。ヨハネ福音書では、マグダラのマリアに焦点を当ててそのときの出来事を記しています。イエス様の墓にやってきたマリアが見たことは、信じたくない、受け入れがたい出来事でした。そこにあるはずのイエス様の亡骸がないのです。彼女は慌ててペトロや使徒たちのそのことを報告に行きました。ペトロともう一人の弟子が急いで墓にやってきて、遺体を包んだ亜麻布を残して空になってしまった墓を見るのです。彼らは、イエス様の亡骸が無くなってしまったということを確認すると帰っていきました。しかし、墓に残ったマリアはどうすることもできなくただ泣くばかりでした。
弟子たちにとっても、マリアにとってもこの数日は信じたくない出来事に直面し、戸惑うばかりの日々を過ごしていたことでしょう。心から愛し、慕っていたイエス様が無残な殺され方で死んでしまったのです。そして、せめてその亡骸を整え、丁寧に葬りたいという思いをもって墓にやってきたマリアの目の前から、イエス様の体が消えてしまったのです。遺体はその人が確かに生きたということ、存在していたということを確認し、同時に遺体と向き合うことは「死」という現実を受け入れるためにとても大切なものといえるでしょう。ところがその大切な亡骸が消えてしまったのです。マリアの悲しみに追い打ちをかけるように、新たに起こったこの信じたくない出来事とマリアは直面させられました。
しかし、この時、マリアは信じられないような出来事を経験するのです。復活したイエス様がマリアの前に現れてくださったのです。ヨハネはこう記しています。「20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
この時、マリアは天使が天使であることも気づかなかったでしょう。イエス様の姿を見てもそれがわからなかったほどですから。そしてそれは、とても信じることのできない出来事と直面しているからといえるでしょう。イエス様は死んでしまったのですから。そして、何よりもマリアはイエス様の亡骸を探すことで必死でした。そして、戸惑いの中に入るマリアにイエス様は「マリア」と声をかけられました。聞きなれた声だったのでしょう、そして、その声にマリアは「ラボニ」、先生と答えました。この時、マリアは今起こっている事実に気づきます。イエス様は生きて、今ここにおられるということに気づいたのです。この時、マリアにとって信じたくない、受け入れたくない悲しい出来事は、信じることのできないような喜びの出来事となったのです。
悲しみと、戸惑いで心が一杯になり、イエス様の姿さえ分からなくなっていたマリアにイエス様が言葉をかけ、気付きを与えてくださいました。
ペトロは彼の導いていた教会に宛てた手紙にこう記しています。「1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」復活はとても信じがたい出来事です。人間の知恵や考えでは容易に受け入れることができないでしょう。しかし、イエス様ご自身がマリアに言葉をかけてくださったように、助け主なる神、聖霊が私たちに気づきを与えてくださるのです。だから、私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」
信じたくない悲しみさえも、信じることのできないような大きな喜びに変えてくださる神様の恵みを思います。そして、イエス様の復活を信じている。このことの不思議さを思い、復活を信じる、信仰へと導いてくださった主なる神様に感謝いたします。
ー祈り-
主なる神様、あなたの御子、イエス・キリストの復活を覚え、心から感謝いたします。
主よ、あなたは私たちの罪を御子に背負わせられました。そして御子の贖いの死によって私たちに赦しが与えられえました。そして、あなたはイエス様の復活を通して、救いの完成を私たちにお示しくださいました。私たちの人生には、思いもよらないような、信じたくない苦しみや悲しみの出来事が起こります。しかし、あなたは私たちに信じられないような祝福と恵みを与えてくださいました。決して切ることの無い希望、永遠の命に恵みに日々感謝して歩む私たちでありますように。そして、この喜びの知らせを携えてあなた李い年度の歩みを始めることが出来ますよう、聖霊の導きをお与えください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書- ヨハネによる福音書 20章11節~18節
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。