聖書 マタイ 18:1~5 宣教題 この子どものように 説教者 中田義直
イエス様の弟子たちは「偉くなること」に強い関心を持っていたようです。今日の聖書の個所では弟子たちがイエス様に「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねた時の出来事が記されています。するとイエス様は一人の子どもをお呼びになり、弟子たちの間に立たせて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と、弟子たちに語りかけられたのです。
当時のユダヤでは、子どもは取るに足らないもの、半人前で不完全な存在だと考えられていました。それは、子どもだけでなく女性に対しても同様でした。わずかなパンと魚で群衆の空腹を満たされた、五千人の給食、四千人の給食といわれる奇跡の記事でも聖書に記されている数は男、それも成人男性の数だけでした。また、当時のユダヤの裁判では成人男性だけが証人となることができました。信頼のおける存在として認められるのは大人の男だけだと考えられていたのです。そして、イエス様の弟子たちも当然そのように考えていました。それがいわゆる常識でした。聖書もそのような常識の中で記されています。ところが、イエス様はそのような常識を覆すようなことを弟子たちに示されたのです。イエス様はここで「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とおっしゃっています。これは、子どもに倣いなさい、子どもを手本として見習いなさいということでしょう。
そして、イエス様はここで「自分を低くして」とおっしゃっています。この出来事をマルコ福音書はもう少し丁寧に記しています。マルコ9章にはこう記されています。「9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
このマルコの記述によれば、イエス様は弟子たちの「誰が偉いのか」という関心、そして「偉くなりたい」という思いを快く思っていなかったことがうかがわれます。弟子たちもそのようなイエス様の考えを知っていたのでしょう、だからこそイエス様から「何を議論していたのか」と問いかけられたときに答えることができなかったのです。「自分を低くしなさい」「仕えるものになりなさい」というイエス様の考えを彼らはよくわかっていたのでしょう。しかし、わかっていても考えや自分の願望を変えるのは容易なことではありません。私たちの心に沁みついている価値観を変えるのは容易ではないのです。
ところでイエス様はこのようにおっしゃっています。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。私の名によって子どもを受け入れなさいとイエス様はおっしゃっています。この背景には、子どもを受け入れることのできない弟子たちの現実があります。それは弟子たちに代表されるユダヤの成人男子といっても良いでしょう。それでは、なぜ、弟子たちをはじめとするユダヤの成人男性は子どもを受け入れることができないのでしょうか。その背景には、子どもはまだ不完全であり、自分たちよりも価値の劣る存在という思いがあるのではないでしょうか。弟子たちは偉くなりたいと願っていました。そしてそれは、自分の価値を高めたいという願いではないでしょうか。子どもと大人、偉い人と偉くない人、そこに弟子たちは「価値の違い」を感じていたのではないでしょうか。
イエス様は子どもと大人の間に価値の違いを見ておられないのではないでしょうか。男と女の間にも、祭司と取税人の間にも、ユダヤ人とサマリア人の間にも律法学者と娼婦の間にもイエス様は価値の上下を見ることなく、一人一人をかけがえのない存在として愛し、受け入れておられるのではないでしょうか。だからこそ、イエス様は社会の秩序を乱すものとしてファリサイ派の人々や祭司たちから命を狙われていたのです。
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」というイエス様の言葉、それは、私が大切に愛し、かけがえのない価値を見出しているこの子どもをあなたたちも受け入れなさいとおっしゃっているのです。そして、弟子たちも、私たちもまた、この子どもと同様にイエス様にとってかけがえいのない価値ある存在なのです。イエス・キリストの十字架による贖によって、私たちはキリストのものとされました。キリストのもの、神のものとされている。そこに、私たちの価値があり、だからこそ、神様は私たちに愛を注いでくださっているのです。
ー祈り-
主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、あなたの御子イエス様は私たちを贖い神のものとしたくださいました。私たちは人と人とを比べたり、自分と人とを比べながら価値ある者とか偉いものといった判断をします。しかし、そのような比較が人を見下したり、自分を苦しめます。あなたに愛され、贖われている、そこにこそかけがえのない価値のあることを受け入れ、信じて生きる者としてください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー マタイによる福音書18章1節~5節
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」