聖書 マタイ福音書 20:29~34     宣教題 イエスの憐みによって  説教者 中田義直

 イエス様とその一行はエリコの町を出て歩み始められました。まだ距離はありましたが、この出発は、いよいよ都エルサレムに向かって歩み始められたということでした。

 エルサレム、それは、イエス様が苦しみを受けられる場所でした。イエス様はエルサレムで捕らえられ、人々にののしられ、十字架にかけられて殺されてしまいます。イエス様はエルサレムでそのような苦しみにあうことを知っておられました。これまでにイエス様はご自身の受難について弟子たちに三回も予告の言葉を語られました。しかし、弟子たちはイエス様の受難の予告の言葉を受け入れることはできませんでした。全く耳に入っていなかったといってもよいでしょう。耳に入っていても、彼らの心はイエス様の受難の予告を拒否していたのです。

 私たちは、五感を通して自分の周りで起こっていることを受け止めます。しかし、私たちは受け止めたことのすべてを理解しているわけではありません。また、理解してもそれを心で受け止めているとは限りません。五感で受け止め、頭で理解していても心が拒否してしまうことがあるのです。弟子たちはイエス様の言葉を聞いていました。何をおしゃっているのか頭で理解することもできました。理解できていたからこそ、最初の受難の予告を聞いたペトロはイエス様に「そんなことを言ってはいけません」と意見したのです。そのことで、ペトロはイエス様に厳しく叱られてしまいました。そして、二回目にイエス様が受難の予告をなさったとき、弟子たちは非常に悲しんだと記されています。その時にはイエス様のおっしゃったことをそのままに受け止まることができたのかもしれません。けれども、弟子たちの心はすぐにイエス様の思いから離れていきました。三度目の予告のすぐ後に弟子たちが考えていたことは、イエス様が都エルサレムで王座に就くことでした。イエス様は弟子たちの不理解を指摘されましたがエルサレムを前にして、彼らの心は「いよいよイエス様が王位につかれる時が来た、そうしたら自分たちはどのような地位につけるのだろうか」という関心で一杯になっていました。

 身近なところにいた弟子たち、日々飲食を共にしてきた弟子たちがそうだったのですから、イエス様についてきていた群衆たちの理解もまた同様な期待を持っていたことでしょう。エリコの町を出たイエス様に従った群衆たちはどんな期待を胸に抱いていたのでしょうか。また、彼らは何のために、どのような動機でイエス様に従っていたのでしょうか。

 イエス様と弟子たち、そして、そこに群衆が加わったのですからきっとその集団はがやがやとうるさかったことでしょう。そんな騒ぎを聞いたからでしょう、道端に座っていた二人の盲人はイエス様が自分たちの近くを通ることを知りました。この二人もイエス様のことを噂で聞いていたのでしょう。彼らはイエス様に向かって「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。よほど真剣に、そして、しつこく叫んだからでしょうか群衆たちは彼らを叱りつけて黙らせようとしました。けれども、どんなに阻まれてもこの二人の盲人はイエス様に向かって「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けました。この声を耳にしたイエス様は立ち止まり、二人を呼んで「何をしてほしいのか」と言葉をおかけになりました。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言いました。するとイエス様は深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになりました。そして、彼らはイエスに従って歩み始めたのです。

 この出来事の中で、群衆たちはイエス様に憐れみを求めて二人の盲人たちの願いを遮ろうとしました。イエス様と盲人の間に割って入り、妨げたのです。このようなことは福音書の中でほかにも見られることでした。長血を患った女の癒しの時に、イエス様に祝福してもらおうと子どもたちを連れてきた者たちに対して、弟子や群衆はその願いを遮り、彼らがイエス様のもとに来ることを妨げようとしました。そして、この時、イエス様の弟子やあとに従っていた群衆たちは、「イエス様のため」というような思いを抱いていたと思えるのです。しかし、彼らの「イエス様のため」という思いの中には、自分自身のためという思いもあったことでしょう。「私の目的をイエス様はかなえてくださるに違いない。だから、私の願いをかなえてくれるイエス様のことを妨げてはならない」と考えていたのでしょう。エルサレムに向かって歩み始められたイエス様、いよいよ自分たちの願いが叶う時が近づいてきた。そんな思いの中で、イエス様の歩みを止めようとする二人の盲人を彼らは黙らせようとしたのです。

 「私の願いをかなえてほしい」ということでは、この二人の盲人たちも、群衆たちも、そして、弟子たちも同じでした。自分の願いをかなえてほしいという同じ目的を持ちながらも、群衆たち、そして、弟子たちは他者の思いを妨げようとしました。女、子ども、そして、障害を持った人々を低く見る、そんな差別意識が彼らの心の中にはあったのかもしれません。自分の願いをかなえるためなら、他の人を押しのけていく、それは私たちの現実でもありましょう。そして、女、子ども、障害を持った人たちは彼らにとって押しのけやすい存在だったのではないでしょうか。

 しかし、イエス様はこの二人の叫びに応え、立ち止まり、みもとに彼らを招きました。そして、彼らの望みを聞き、深く憐れんで奇跡を行ってくださいました。イエス様は分け隔てなく、憐れみを注いでくださいます。いえ、分け隔てなくというよりもイエス様は弱い立場に置かれた人、差別されたり、社会の交わりから追いやられている人にこそ寄り添い、深く憐れみ、彼らの願いを受け止めてくださるのです。

 私たちは、誰と共に生きるのか、だれに寄り添い歩んでいくのか、イエス様の憐みの心に従い、私たちも歩んでいきたいと願うのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 神様、あなたの御子イエス様は深い憐みの心をもって、私たちを導き救いへと招いてくださいました。しかし、私たちは自分のことを思うあまり、人押しのけたり、弱くされている人を無視したり、差別さえしてしまうことがございます。

 主よ、私たちに聖霊を注いでください。私たち自身が、イエス様の憐みを注いでいただき、あなたの民とされた恵みを忘れることがありませんように。そして、イエス様の憐みに学び、聖霊の助けと導きの中で、イエス様の憐みの心に従うものとしてください。神様、あなたが求めておられるのは「憐れみ」であって「生贄」ではございません。憐れみ心こそ、あなたが喜ばれるものですから。あなたに喜ばれる歩みをなさしめてください。 

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書ー マタイによる福音書 20章29節~34節

 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。