宣教題 主なる神の正義
聖書:マタイ 12:15~21

牧師 中田義直

 神学生の頃、友人が「本屋に行ったらこんな本を売っていた」といって一冊の本を見せてくれました。それは、『イエスの広告術』という本でした。これはイエス様の伝道活動を現代の広告宣伝という視点から見た本です。人々の間に自分の存在を知らせ、多くの人がイエス様のもとに集まってきたという聖書の記述から、イエス様を優秀なビジネスマン、セールスマンに置き換えて、どのようにしてイエスは人々を魅了したのか、ということを記した本でした。聖書の解釈など疑問符のつくところがありましたが、難しい神学書に苦しめられていたなかで、これはわかりやすく面白い読み物でした。その中で、今日の聖書個所にも出てきますが、イエス様が人々にご自分のことや、ご自分で行った奇跡について「話してはならない」とおっしゃったことについて取り上げられていました。そこでは、「話してはいけない、と言われると人は話したくなるものだ」といったことが記されていました。つまり、イエス様はご自分のことを人々の間に広めるために、「話してはならない」と言ったのだというのです。そういうこともあったのかもしれません。確かに、結果的にそうなったともいえるでしょう。しかし、イエス様はそのような策略のために「話してはならない」とおっしゃったのだろうかと、私はすんなりと受け止められませんでした。また、もし仮にそのような思惑があったとしても、すべてがそれに当てはまるとは言えないでしょう。
 今日の個所でもイエス様は「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」と記されています。しかしその状況は大変緊迫したものでした。イエス様はファリサイ派の人たちと安息日について議論しました。彼らはイエス様のおっしゃったことに太刀打ちすることができませんでした。しかし、彼らは自分たちの考えを改めようとはしませんでした。それどころか、イエス様のことを殺してしまおうと考え始めたのです。12章15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」と記されていますが、「それを知って」とはまさにファリサイ派の人々がイエス様のことを殺そうと相談し始めたことを知ったということです。どのようにしてイエス様はそれを知ったのでしょうか。ニコデモのようにファリサイ派の中にはイエス様に好意的な人もいましたから、そのような人によって知らされたのかもしれません。イエス様は「それを知ると」、その地方を立ち去ることとされました。イエス様は、ここでのファリサイ派の人たちとの血なまぐさい争いや、それに弟子たちや群衆を巻き込むことを避けようとなさったのでしょうか。イエス様は危機を避けるために避難する道を選ばれました。しかし、この危機的な状況を知らないであろう群衆たちは、イエス様の後を追っていきました。そして、「イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」と記されているように、イエス様の後を追ってきた群衆たちを無下に追い返すことなく、皆の病をいやしたくださいました。そして、「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」のです。つまり、ここでのイエス様は非常に緊迫した状況の中におられたのです。そして、避難しようとしておられたのです。ですから、「言いふらさないように」というのは、知らせるためでなく逃れるため、ファリサイ派の人たちから身を隠すためであったのです。
 誤解と逆恨みからサウル王の怒りを買ったダビデが、荒れ野に逃れたように、時に「逃げる」ということが神様の御心にかなう選択であることがあります。マタイは、イエス様が「逃げる」という選択をされたこと、また「言いふらさないように」と人々を戒めたことをイザヤの預言、その中でも救い主の預言(メシヤ予言)の成就であると理解し、聖書の言葉を示しています。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
 ここに示されている神のしもべは、イスラエルの民だけでなく異邦人に神様の正義を知らせます。この「異邦人」と訳されているところは「国々」とも訳されます。つまり、イスラエルの民と異邦人というような区別なく、すべての国々に神様の正義を知らせるのが「神の僕」の働きです。そして、「正義」は「裁き」、裁判の「判決」とも訳されます。神様による正しいさばきが示されます。そしてそれは、神様の赦しの完成です。神様の前に私たちは罪びとです。神様の前に私たちは、「お前は罪人だ」という判決を受けるでしょう。しかし、神様はこの「罪人」を愛すると言ってくださるのです。神様の正義、それは福音です。そして、正義が勝利したということは、神様の愛が勝利したということなのです。そして、人間としてこの地上を歩まれたイエス様の勝利とは、神様の独り子でありながら、僕として、神様の御心に従って歩みぬくということでした。ゲッセマネの祈りで祈られたように、人間の弱ささえもご自身の身に引き受けてくださったイエス様は、苦しみながらも神様の御心に従って十字架への道を歩んでくださいました。
 「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」とイザヤが予言したように、イエス様は罪人を愛する神様の愛を完成させるため、傷ついたもの、弱くされた者たちへの憐れみを決して捨てることなく、歩んでくださいました。
 異邦人の望み、すべての人々の希望であるイエス様の「名」を私たちも伝えてまいりましょう。

 -祈り-
 主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
 神様、私たちは正しくありたいと願っています。正義を求めています。しかし、私たちは何が正しいことかを求めるよりも、自分が正しいともうことを主張してしまうことがあります。そして、人の言葉に耳を貸さず自分の正しさを押し通そうとしたり、自分が正しいと思うところに従って人を裁いてしまうことがあります。主よ、私たちに謙遜な心を教えてください。そして、何よりもあなたの正義を求めることができますように。主よ、私たちのうちに聖霊を満たし、あなたの御心を教えてください。
 この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

聖書
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」