聖書 ヨハネ 1:1~5  宣教題 人を照らす光  説教者 中田義直

来週の日曜日はクリスマスです。クリスマスシーズン、街の中にはクリスマスのイルミネーションを飾っている家が何軒もあります。また、クリスマスにはキャンドルを灯すなど、クリスマスにはいろいろな機会に「光」が用いられます。クリスマスに光が用いられるのは、ただ単に綺麗だからというわけではありません。聖書はイエス・キリストを「光」と言います。イエス・キリストの誕生は光の到来です。イエス・キリストは暗闇の中に輝く光、希望の光であると聖書は語っています。

新約聖書の4つの福音書の中で、マタイとルカの福音書はイエス・キリストの誕生物語を記しています。マルコはイエス様が人々の前に出て福音を述べ伝える活動を始めた時、いわゆる公の生涯のはじめから記しているので誕生物語を記していません。そして、ヨハネ福音書はとても抽象的な表現で、イエス・キリストの誕生について記しています。

「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

ところで、「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と新共同訳聖書で訳されている箇所は、聖書によって翻訳に大きな違いを感じる箇所の一つです。二十年ほど前まで広く用いられてきた口語訳聖書では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」と訳されています。「理解しなかった」というのと「勝たなかった」というのでは随分と違います。もともとの言葉は直訳すると「掴むことができない」という言葉です。この「掴む」というのは、「捕まえて押さえつける」という意味と「物事を捉える。理解する」という意味を持っているのです。捕まえて押さえつけることができないという意味を取れば、「勝たなかった」という意味になり、「物事を捉える」という意味を取れば「理解しなかった」という意味になるのです。どちらの意味に取るのも十分な根拠のあることですので、今日は新共同訳聖書の基づいて「理解しなかった」という意味で読んでいきましょう。

ここで福音書を記したヨハネは、イエス・キリストは、神と共にある言葉であると記しています。これは、「神の御子イエス・キリストは神の言葉である」と言っても良いでしょう。

言葉と信頼ということは深く結びついています。なぜなら私達が人を信じる、信頼するというのはその人の言葉を信じるということだからです。そして、その人の言葉を信じるということは、過去のことであればその言葉が事実であるとすることです。そして、未来においては、語られた言葉が事実となる、現実となると信じることです。病気になってお医者さんにかかった時に、ひとつの治療方法を示され、「この治療をするとこうなります。そして、このように状態が良くなりますよ」、と説明されて、「この治療を受けますか」と尋ねられたとしましょう。このような問いかけに対して、私達はそこで語られた言葉に対する信頼によって判断をするのではないでしょうか。「本当に、説明通りにうまく行くのだろうか」と疑念を持てばその治療を受けいることに躊躇するでしょう。しかし、「きっと説明された通りの結果が得られるだろう」と信じることができるなら、前向きにその治療に取り組むことになるでしょう。

真実の言葉は、現実となります。そして、神様は言葉を持ってこの世界を創造されたと聖書は語るのです。聖書の最初に置かれている『創世記』の冒頭部分にこう記されています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記1:1~3)

創世記に記された天地創造の出来事が物語っているのは、「神様の語られた言葉は、現実のものとなる」ということです。そして、神様の最初の言葉は、「光りあれ」という言葉でした。この「光りあれ」という、神様の言葉は命の始まりを示しています。天地創造の物語が示している「世界」は、命の生きる「場」だからです。命が生まれ、命が生きることのできる「場」が創造されたからこそ、そこに生命が誕生し、植物、そして動物が生まれました。私達の命、それは、神様から与えられ、生かされている命です。

福音書記者ヨハネは「1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と記します。ヨハネは、イエス・キリストを「言葉」に喩えています。そして、この神の独り子イエスは私たちに命を与える方であり、私たちを照らす光だとヨハネは記すのです。私たちの目がものを見ることができるのは、光があるからです。光がなければ、私たちは見ることができません。そしてそれは、肉体の目のことだけではありません。私たちの心の目も同様です。私たち人間の器官は本当に良く出来ています。雑音の中でも、聞きたいと思う音を取り出します。しかし、そのような能力は諸刃の剣でもあります。見たいと思うもの、聞きたいと思うものを受け止めるけれども、見たくないもの、聞きたくないものをシャットアウトすることができるのですから。このことは、心の目、霊的な目の大切さを示しているのではないでしょうか。私たちの心の目が曇っているならば、肉体の目が見えていても大切なことを見落としてしまいます。そして、肉体の目と同じように、心の目も光がなければ物事を受け止めることができないでしょう。

「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記されているように、私たちは時として光が照らし出している大切なことを受け止めることができません。また、光で照らしだされるよりも闇に隠されることを望みます。しかし、光で照らしだされてものは、たとえ闇で隠していても見えていないだけで無くなってはいないのです。

神様の光に照らしだされるとき、私たちは自分自身の罪を示されるでしょう。心の目は光の中で自分自身の罪を見るでしょう。しかし、神様の光が照らしだすのは、それだけではありません。神様の光は、イエス・キリストによって示された神様の愛を私たちに教えてくれるのです。私はあなたを愛し、あなたの命を永遠へと導くとイエス様はその生涯を通して、私たちに教えてくださいました。神様のゆるしと愛、それこそが神様からのメッセージ、イエス様という神の言葉が語りかけているメッセージなのです。神様の愛を信じ、ゆるしを信じて、私たちを照らすイエス・キリストという光の中を歩んでまいりましょう。

 

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは御子イエス様を通して私たちに語りかけておられます。あなたの言葉に耳を向けるとき、私たちはその言葉の持つ光によって、自分の罪を知ることになります。自分の罪に向き合うことは苦しいことです。その現実を知っているので、私たちは闇を求めてしまいます。しかし、どんなに闇で隠しても罪が消えて無くならないことも知っています。どうか、罪と向き合う力をお与えください。そして、その罪を超えて私たちをゆるし、愛していてくださるあなたの愛を信じ、受け入れることができますように。イエス様を信じ、イエス様に委ねて、光の中を歩むことができますよう、お導きください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書ー

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は、初めに神と共にあった。

1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。