聖書 マタイ 12:33~37 宣教題 言葉と心 説教者 中田義直
明日は成人の日です。ハッピーマンデーデイ制度で成人の日は2000年から1月の第二月曜日になりました。もうずいぶん経ちますが、私はまだピンときません。成人の日は1月15日というのが染みついているようです。それはともかくとして、日本では20歳で成人となります。成人になると選挙権が与えられるということがあり、それが一つの自覚につながりました。成人式の挨拶などでもそのことにふれることが多かったようですが、去年から選挙権が18歳になりましたので、今年の成人式ではどのようなことが成人の自覚として語られるのでしょうか。例えば、20歳になると大きく変わるのは、飲酒などが許されることと犯罪を犯したときに少年法でなく責任がしっかりと問われることでしょう。
責任が問われるということ、それは、自分の行動の責任が問われるだけでなく、言葉の責任も問われるということです。18歳という区切りもありますが、契約などを結ぶときには、成人であるということが重要視されるでしょう。そして、本来それは年齢で区切られるのではなく、人間として問われることともいえるでしょう。子どもであっても自分の語った言葉の責任を強く感じる人もいれば、齢を重ねても、無責任な言葉を語ったり、自分の言葉がどんなふうに周囲に響くのかということを考えない人もいます。そのような人に対して私たちは「言葉が軽い」と評価することがあります。さらにそのような人を「人間が軽い」と評価することもあります。このことは、言葉とそれを発する人の人格が深く結びついていることをあらわしています。
イエス様は「12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」と語られました。これは本当に厳しい言葉です。そして、この言葉を厳しいと感じる人は、きっと、自分の言葉に責任をもって生きている、また、生きていきたいと考えておられる方でしょう。私たちは聖書の言葉の前にたじろぐことがあります。とても無理だ、こんなことは私にはできないと思うことがあります。これはとても大切な感覚です。なぜなら、聖書の言葉を自分に向けられた言葉だと感じている、そこで語られている言葉を自分に当てはめて考えているからです。
今日の聖書個所に記されているイエス様の言葉は、当時の宗教的なリーダーであり、エリートと自認していたファリサイ派やその律法学者たちに向けられた言葉です。彼らは聖書の言葉をとてもよく知っていました。そして、それに従って生きようとしていた人たちです。正しくは、従って生きようとしていたというよりも自分たちは神の言葉に従って生きているという強い自負心を持っていた人たちでした。ところがこのファリサイ派や律法学者たちをイエス様は厳しく批判なさるのです。それは、彼らが律法をどうしたら守れるかということに真剣に取り組む一方で、律法に込められている神様の思いを受け止めようとしていなかったからです。例えば、「安息日」は労働をしてはならない日として神様が定められた日です。それは、神様の創造の業を覚えて感謝するために定められた日です。また、奴隷も家畜も労働から解放されて、喜びと楽しみをもって過ごす日でした。しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、労働をしてはならないということのためにたくさんの決め事を作りました。そして、その決め事を守れない人々を不信仰ない者、価値のない人間、神に呪われ裁かれるものたちだと裁いていたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちの安息日に対する考えは、イエス様の目には人々を労働から解放する日ではなく、新しい重荷を背負わせているように見えたのでしょう。
自分たちは正しく、価値ある存在だという思いの中で傲慢になり、人々を裁き、見下すファリサイ派や律法学者たちの態度や行い、そして、その言葉こそイエス様の目には「悪い実」なのです。イエス様は人々にこう語りかけられました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)
イエス様は「柔和と謙遜」を学びなさいとおっしゃっているのです。「柔和と謙遜」それこそがイエス様の言われている「良い実」ではないでしょうか。かつてファリサイ派の人々は、イエス様が彼らから罪びとと呼ばれていた人たちと食事をしているところにやってきて弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。この時イエス様は彼らにこう答えられました。
「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:11~13)
ファリサイ派の人々にかけていたもの、それは、罪びとに対する憐れみでした。そして、イエス様が教えておられる、神様が罪びとを憐れみ、愛しておられるということを彼らは受け入れることができませんでした。しかし、本当はファリサイ派の人も律法学者も、神殿の祭司たちも神様の前に罪ある存在です。神の前に自分の正しさを主張できる人はいないのです。そして、幸いなことに私たちはそのことを自覚することができるのです。イエス様の「12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」という言葉の目に私たちはたじろぎます。きっと私は自分の言葉によって、裁きの日に責任を取ることになるだろう。いったいどんな恐ろしい裁きが待っているだろうかと考えてしまうのではないでしょうか。しかし、その罪の自覚こそが私たちを救いに導くのです。自分の力では、自分の罪を克服することのできない罪びとである「私」を神様は神の民として招いておられる、それが、イエス様が私たちに教えてくださった、神の思い、神の御心です。
私の言葉、私の行いには自分のうちにある罪がにじみ出ています。人には気づかれないように過ごしていても、立ち止まって自分の行い、言葉、そして心の思いを振り返るとき、私たちはその罪に気づいてしまうでしょう。だから、このイエス様の言葉が、厳しく恐ろしい言葉として心に響きます。そして、その時、私たちにできること、それは、罪びとを招いておられる神様の声に応えることなのです。
-祈り-
主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、あなたは罪びとを招くために、御子イエス様を私たちの世にお遣わし下さいました。主よ、私たちは罪びとが裁かれ、善人が救われることを望んでいます。しかし、その時私たちは自分自身があなたの前に罪びとであることを忘れてしまっていることがあります。けれども、私たちはあなたの前に罪深いものであることを知っています。だから、厳しい聖書の言葉から目を背けてしまいます。しかし、主よ、あなたの厳しい言葉の中にある、罪びとへの招きの声をしっかりと受け止めることができますように。
主よ、私たちに罪の気づきを与えてください。そして、罪びとを招くあなたの招きに気づくことができますようにお導きください。そして、招きにこたえてあなたの前に歩み出ることができますように。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー
12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」