聖書 マタイ 15:21~28   宣教題 信仰によって  説教者 中田義直

 4年前の特別伝道集会にお迎えした、国際基督教大学の名誉教授の岡野正雄先生が昨年、キリスト教の専門書を出版している新教出版から「信じることをためらっている人へ キリスト教「超」入門」という本を出されました。実は、この本は、アスキーという新書や雑誌を出版している一般の出版社書店から出版された「イエスはなぜわがままなのか」という本をベースにして書き改められた本なのです。この本のタイトルはなかなかインパクトがありますが、大学での学生さんたちとの対話やその中から出された聖書やキリスト教に対する疑問を受け止めながら書かれた本なのです。福音書の中に、イチジクの木に実がなっていなかったので、イエスが呪ったところ、翌日にはその木が枯れていたという出来事が記されています。この出来事について、学生さんはイエスなんとわがままなのだろうという感想を持ったそうです。この出来事には「イチジクの実る季節でなかった」と記されていますから、わがままさ加減は決定的と見えるでしょう。

 私たちクリスチャンはイエス様を神様と信じています。そして、イエス様の深い憐れみと愛を知っています。ですから、イエス様には何かお考えがあってイチジクの木を呪ったのだろうと考えます。そして、その時、私たちは、できるだけ自分のイエス様に持っているイメージを壊したくないと願っていることがあります。

 今日の聖書個所に記されているイエス様は、子どものころから私が抱いているイエス様のイメージとは異なるのです。この箇所でイエス様は悪霊にとりつかれた娘をいやしてほしいと必死に願っている母親を無視しています。

 イエス様はティルスとシドンの地方を通られました。この時、その地にいる女がアクレにとりつかれてひどく苦しんでいる娘を癒やしてほしいとイエス様のもとにやってきたのです。ところがイエス様はこの女の叫びに応えられませんでした。それでも必死に追いすがる母親のことを弟子たちは「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言います。イエス様はこの弟子たちを厳しく叱責されるかと期待したのですが、イエス様はこの母親に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というのです。まるでかユダヤ人を選民と考えて異邦人を見下しているファリサイ派の人のようです。それでもイエス様にすがり、ひれ伏す女に向かってイエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃったのです。この言葉はイエス様のユーモアで、イエス様微笑みかけながらこうおっしゃったという解釈があります。しかし、「犬」というのは手下だとかこびへつらう人間に対する悪口として用いられる言葉です。この時の状況を思い描いてみると、子どものことで必死になっている人に微笑みながらかけるこのような言葉を投げかけるというのは、とても残酷なことのように私には思えるのです。

 ところが、イエス様の言葉に対してこの女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」とこたえました。そして、この言葉に対してイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われたのです。そして、この時、娘は癒やされます。

 この結末は私はほっとしました。そして、改めてこの出来事を見直してみると、私はこの出来事、そして、イエス様と女のやり取りの中に真剣勝負のような緊張を感じるのです。母親は娘の癒しを願ってイエス様のところに来ました。カナン人でありながら、イエス様のところにやってきたのです。この出来事の中に父親はいません。父親はいないのかもしれません。それとも、もしかしたら家族や周囲の人たちから、この母親はユダヤ人に頼ることを反対されていたのかもしれません。それでも、この女は対立し、自分たちのことを「罪人だ」いって見下しているユダヤ人を頼ってイエス様のもとにやってきたのです。

 イエス様はここで「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」とおっしゃいました。この女の信仰、イエス様が「立派だ」とおっしゃる信仰とはどのようなものだったのでしょうか。イエスさまなら必ず癒やしてくださると信じること、あきらめずに熱心にイエス様に求めること、それらは本当に素晴らしい信仰といえるでしょう。そして、もう一つ、見落としてはならないことがあるでしょう。それは、この人がイエス様の前に自分を低くしたということです。徹底的に自分を低くしました。自分の娘の癒しのためならば彼女は民族間の対立を乗り越えてイエス様のもとにやってきました。そして、自分のことを「犬」と呼ばれても彼女は一歩も引きませんでした。プライドをかなぐり捨てて、娘の癒しを願い求めました。パンを与えてくださらなくても、たとえパンくずでもいい、あなたの御力を娘に注いでほしいとこの人は願ったのです。

 パウロはこう記しています。「1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」

 パウロは復活のイエス・キリストに出会う前、ユダヤ人としての民族の誇りをはじめ多くの誇ることができるものを持っていました。しかし、イエス様と出会い、それらを捨て去りました。私たちを本当に救う方、罪から解放し、私たちを神の民とするのはただイエス様の十字架と復活によって示された神の愛のみなだということに気づいたからです。この母親は娘を救うことができるのはイエス様だけだと信じました。娘のために誇りを捨てさり、ただ、イエス様により頼みました。そして、イエス様はこの女の信仰を祝福してくださったのです。

 

ー祈り-

 主なる神様、この主の日、あなたに呼び集められ、礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは憐れみ深いお方です。私たちの叫びを受け止めてくださいます。イエス様はカナンの女の叫びを受け止めてくださいました。彼女は娘の癒しを願いました。そして、イエス様の厳しい問いかけに応え、主よあなたが最も喜ばれる「砕かれた魂」を御前に捧げることができました。

 主よ、時として私たちは自分のブライドや誇り、高ぶる心を捨てることができず本当に大切なものを見失ってしまうことがあります。主よ、どうか私たちに聖霊を注ぎ心のを開いてください。そして、自分自身にとって本当に大切にしなければならないものを大切にすることができるよう、お導きください。そして、あなたの前に砕かれた魂をお捧げすることができますよう、聖霊の導きをお与えください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  マタイによる福音書15章21節~28節

15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。