聖書 マタイ 15:29~31   宣教題 神を賛美する人々  説教者 中田義直

 人間は高い知能を持った生き物といわれています。人間自身が他の動物と自分たちを比べて、そのように言っています。知的生物、それが私たち人間の自己理解だといえるでしょう。そして、聖書の人間をそのように描いています。神様が創造された生き物の中で、人間だけが知恵の木の実を食べました。知恵の木の実を食べた人間は、目が開き、自分が裸であることに気づきました。人間が得た知恵によって、人間が最初に気づいたこと、それは、自分自身の弱さでした。覆って隠さなければならない弱さがあるということに気が付いたのです。

 自分の弱さを知った人間は、その弱さを受け入れることよりも弱さを克服する道を選びました。道具を使うことによって、そして、エネルギーを使うことによって人間は自分の弱さを克服してきました。鋭い牙や爪をもあたない人間は、石や金属で武器を作り、牙や爪を持った動物を倒しました。馬を操る空を飛べない人間は、飛ぶことにあこがれ空を飛ぶ飛行機を作り出しました。より強いものにあこがれ、弱さを克服する中で人間は文明を発展させてきました。そして、弱さを克服する人を称賛し、その姿に感動を覚えます。しかし、私たち人間は、強さにあこがれる心を持つゆえに、弱さをさげすみ、見下し、遠ざけようとします。また、自分の強さを確認したり、自分の価値を高めるためにより弱いものを見下します。そこに差別が生まれます。弱いものを差別する。それは社会的な弱者に対してだけではありません。肉体的な弱さ、病を追っている人にそのような心が向けられることさえあるのです。

 イエス様のもとには多くの病を負った人たちがやってきました。「15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」と記されています。ここに記されているような人たちは、ファリサイ派や祭司たちから汚れた人々としてさげすまれ、差別されていた人たちでした。

 聖書にしるされているイエス様の癒しの記事の中には、病いや障がいを回復させる肉体的な治癒、癒しと共にイエス様の差別に対する毅然とした姿勢が示されているものがあります。イエス様は病んでいる人の肉体的な健康を回復すると共に、奪われていた人間としての尊厳を回復してくださいました。病や障がいを神様に見捨てられている結果だ、罪の故に神から与えられた罰だといわれていた人たちの癒しは、神様は決してこの人たちを見捨てておられないというメッセージでした。「神様はこの人たちを愛しておられる」ということをイエス様は癒しを通して教えてくださいました。

 そして、聖書にはこう記されています。「15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」ここにいた群衆たちは、イエス様の癒しの目撃者となりました。彼らは、今生きて働いておられる神様の御業を見ました。そして、驚き、イスラエルの神を賛美したのです。

 さて、聖書にはこう記されていました。「15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」この奇跡の目撃者たち、神を賛美した人々は病んでいるもの、体に重荷を負っている者たちをイエス様のもとに連れてきた人々でした。「イエスの足元に横たえたので」とありますから、彼らはこの弱さの中にある者たちを背負ってきたり、戸板に乗せてきたり、肩を貸して支えながら連れてきたのではないでしょうか。彼らは、病を負った人や体に不自由のある人たちをさげすんだり、差別することなく仲間として、友人として、家族として、つまり大切な隣人として彼らの癒しを願ってイエス様のもとに連れてきたのではないでしょうか。癒されたことを見て驚いたと記されていますが、イエス様ならいやしてくださるかもしれないという一筋の光を頼りに、そして、仲間の背負っている重荷が少しでも軽くなってほしいという願いと祈りをもってこの人々は病んでいるものをイエス様のもとに連れてきたのではないでしょういか。

 人間と他の動物たちと異なること、その一つは知恵の木の実を食べたことでした。そして、あと二つのことが「創世記」の人間の創造の出来事に記されています。一つは、神様が直接鼻から命の息、命の霊を私たちに吹き入れてくださったということです。ここに神様から与えられた大切な人間の尊厳があるといえるでしょう。そして、もう一つのこと、それは神様がふさわしい助け手を創造してくださったということです。ほかの被造物、生き物たちについてこのようなことは記されていません。人間は助け手を必要とする存在なのです。神様は人には助け手が必要なことを知っておられました。

 弱さをさげすむのではなく、弱さを共に担い合い、他者を助けるということ、そこに神様から与えられた人間の人間としての姿があるのではないでしょうか。弱さの中にある、その人を大切な隣人として受け入れ、一生懸命に支えながらイエス様のもとに隣人を連れてきた人々、彼らこそが神様の奇跡の目撃者となり、神を賛美する人々なのです。

ー祈り-

 主なる神様、この主の日、あなたに呼び集められ、礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
 主よ、あなたは私たちの弱さを担ってくださいます。消えそうなろうそくを吹き消すことなく、小さな輝きが失われることのないように私たちを支え導いてくださいます。
 主よ、私たちは隣人の弱さを助けるもの、そして、自分自身も弱さの中にあって助けを必要とする存在です。主よ、あなたは私たちに命の息を吹き入れてくださいました。そして、ふさわしい助ける者を創造してくださいました。主よ、私たちは自分の知恵で他者や時には自分自身の価値を値踏みしてしまいます。そして、弱い者をさげすんでしまうことがあります。しかし、それはあなたの創造の御業に反することです。私たちは助けを必要とするものとして作られ、また他者を助ける者として創造されました。主よ、私たちが互いに助け合い、弱さを担い合いながらあなたの御前に歩み出る者でありますように。
 主よ、聖霊の導きをお与えください。そして、あなたを賛美する者としてください。
  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書- マタイによる福音書15章29節~31節

15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。