聖書 マタイによる福音書 15:32~39    宣教題 憐れみ深いイエス様   説教者 中田義直

 今日の聖書の個所では、最後のところに「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた」と記されています。イエス様は新しい場所へと進もうとされました。ところが、この時イエス様の周りには男だけで四千人もの人々がいたのです。しかも彼らはすでに三日間、イエス様についてきていました。新しい場所に進んでいくためには、彼らを解散させ、それぞれの場所に帰さなければなりませんでした。この時、イエス様は弟子たちにこうおっしゃっています。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」。群衆たちはこの三日間、まともな食事をしていなかったかもしれません。しかし、考えてみれば、群衆たちは少々無責任な感じもします。自分で自分の食事のことくらい考えて、行動するべきではないか、そんなことさえ考えてしまいます。
 結論から言ってしまえば、イエス様は七つのパンとわずかな魚によって、この群衆たちの空腹を満たし解散させられたのです。

 ところで、この群衆たちはどのような人たちだったのでしょうか。彼らは、イエス様について三日間という時を過ごしていました。なぜそれだけの時間を使うことができたのでしょうか。彼らのことを考えながら、私の頭の中に浮かんできたのはイエス様がお話しされたブドウ園の労働者の譬え話です。朝から半日働いた人も、夕暮れ前に1時間しか働かなかった者にも主人は同じ一日分の賃金を与えたというお話です。あの中で、夕方の時間に広場に行った主人はそこにいた人に「なぜ働かないのか」と問いかけます。そして、そこにいた人たちは「誰も雇ってくれないのです」と答えたのです。言い換えれば彼らは選ばれなかった人たちです。そして、選ばれなかった人たち、雇ってもらうことができない人たちならイエス様の後について三日間を過ごすこともできたでしょう。

 イエス様と度々対立したファリサイ派というグループがありました。彼らは、律法に従って立派な生活をしようと願っていた人たちです。ところで、このファリサイ派という名前は彼らが自ら名乗ったのではなく、周囲の人々がつけたいわばあだ名でした。ファリサイというのは「分離する」という意味の言葉です。ですから、周囲の人たちは、自分たちと他の人たちをはっきりと分離するという姿勢を強く感じていたのでしょう。ユダヤの人々の中には、自分たちは神様から選ばれた民であるという意識が強くありました。ところが、この選ばれた民の中でもさらに「選ばれた者」と「選ばれなかった者」という区別が生まれていたのです。それは、それは「神の子としてふさわしく生きている者」と「神の子にふさわしくない罪人」という区別でした。そして、彼らから「お前たちは神にふさわしくない罪人だ」、「お前たちと交わりたくない」という扱いを受けていた人たちがファリサイ派というあだ名をつけたのです。

 そして、このファリサイ派の人々はイエス様に「なぜあなたは罪人たちと一緒に食事をしたり、交わりを持つのか」と問いかけます。それは、もしあなたがら正しい預言者ならば、罪人たちと交わるな。まさに、分離しなさいとイエス様に問いかけていたのです。たとえば、マタイ福音書9章の徴税人マタイをイエス様がお招きになったときの記事にはこう記されています。「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った」。これに対してイエス様はこうお答えになりました。「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」」。これがイエス様の答えでした。「分離しないのですか」という問いかけにイエス様は「私は分離しない」と答えられたのです。

 今、社会に目を向けるとき、分離、独立といった主張が力を持っているように思います。自分の国や民族を第一として、それ以外を排除するいわゆる排外主義が強くなっているようです。そして、同じ民族や国の中でも経済的な格差による「分離」が進んでいるのではないでしょうか。個人の主体性や自主性は大事です。それは、大切にされなければなりません。しかし、異なる者を排除したり否定することは差別につながります。そして、マタイ14章に記されていた五千人の給食の出来事のとき、弟子たちはイエス様に「「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」といいました。現代の言葉で言えば、自己責任ということでしょう。ところが、イエス様は弟子たちに群集たちの食事の世話をするようにとお答えになったのです。

 イエス様のもと来た群衆たち、彼らの中には、確かに物見遊山で話題になっているイエス様の話を聞こう、奇跡とやらを見てみようと思ってやってきた人もいたでしょう。しかし、イエス様のまなざしは切なる願いを持って、救いを求めてやってきた人たちに向けられていたのではないでしょうか。そして、三日間もイエス様の後をついてきた人たちの中には、「ぶどう園の労働者のたとえ」に登場する夕方まで広場にいた人たち、つまり、選ばれなかった人たちもいたのではないでしょうか。イエス様はその人たちを空腹のまま家に帰すことができなかったのでしょう。

 弟子たちが取り出してきた、七つのパンとわずかな魚を手に取ったイエス様は「感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった」のです。そして、弟子たちは分け与えられたパンと魚を人々に配りました。きっと弟子たちに手渡されたパンと魚は本当にわずかなものだったでしょう。しかし、彼らはイエス様の言葉に従ってそれを人々の元に届けたのです。イエス様は空腹を抱えた群集たちの飢えを満たしてくださいました。そして、それは、選ばれなかったものたち、神様に愛されていないと言うレッテルを貼られていた人たちに神様の愛を届けることだったのではないでしょうか。イエス様の憐れみ深い心を届けること、それが、弟子たちに託された働きだったのです。

 アッシジのフランチェスコの祈りと伝えられてきた、有名な平和の祈りの言葉は、伝えなさいと私たちに託されている「福音」とは何かと言うことをも、示しているようにも思います。イエス様がパンと魚とともに託された神様との和解、平和の福音を私たちも伝えてまいりましょう。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。憎しみがあるところに愛を、 争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、 誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、 悲しみあるところに喜びを。

 ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、 とこしえの命を得ることができるからです。」

 

ー祈り-

 主なる神様、この主の日、あなたに呼び集められ、礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは、あなたに背を向けていた罪深い私たちを愛し、憐れみを持って導いてくださるために、御子イエス様をお遣わしくださいました。御子イエス様はいつも弱いもの、この世の秤で選ばれなかったものたちに目を注いでくださいます。そして、よい者にも悪い者にも雨を降らせ、日の光を与えてくださる神の愛を教えてくださいます。

 主よ、イエス様が感謝の祈りを持って与えてくださった喜びの知らせをしっかりと受け取ることができますように、そして、その喜びを証しするものとしてください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書-  マタイによる福音書15章32節~39節


15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。15:39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。