聖書 マタイによる福音書 16:1~4    宣教題 希望のしるし 説教者 中田義直

 ファリサイ派とサドカイ派というのはユダヤ教の中のいわゆる教派ですが、彼らは信仰の理解や政治に対する姿勢などで日ごろから対立していました。ファリサイ派の人々は、異邦人(他の神々を信じている人々を)罪びと、また穢れたものと考えていました。そして、当時はは特にユダヤを支配していた異邦人であるローマの人との関係をできるだけ避けていました。彼らは、信仰の中心に律法をおき、その律法に忠実に生きるために、律法を研究してマニュアルを作りその通りに生きることを何よりも大切にしていました。異教徒との交わりを拒むのも律法に忠実であるためでした。

 一方、サドカイ派の人々は神殿で行われる祭儀を信仰の中心においていました。神殿でのささげ物、律法に従って悔い改めと感謝のささげ物をささげる神様と人々の仲介の働きをする祭司はこのサドカイ派に属していました。大規模な神殿の運営のために、そして何よりも彼らは偶像礼拝を避けるためにローマと交渉して皇帝礼拝の免除と言う特権を得たのです。ローマは支配した属国に皇帝の像を作り、皇帝礼拝することを命じました。ただユダヤ教徒だけが皇帝礼拝を免除されたのです。皇帝礼拝を強いたなら、ユダヤの民は命を捨ててでも抵抗する。そうなれば、属国からの税を得ることもできなくなります。帝国の支配と言うのはただ領土を広げるだけでなく、そこにいる人間を労働力とすることを目的としていました。ですから、死ぬまで抵抗されるというのはローマにとっても大きな損害となります。そのようなユダヤの人々の信仰の姿勢を伝え、彼らはローマとできるだけよい関係を作り、皇帝礼拝の免除という権利を得たのです。しかし、それは、ある面においてローマの支配を受け入れることでもありました。そして、それはファリサイ派の人々にとっては妥協的に見えたのかもしれません。

 また、信仰面ではファリサイ派は死者の復活を信じる一方、サドカイ派は復活を否定していました。死後の世界ではなく、現世を大切にしていたのでしょう。それだけに現実的でもあり、この地上での特権や権力を持つことをサドカイ派人々は大事にしたのでしょう。実際サドカイ派の人々は特権階級に属していました。一方、ファリサイ派はいわゆる中間層の人が多かったようです。

 信仰的な理解の違い、社会的、経済的な立場の違い、ローマに対する姿勢の違い、それは当時の社会の中では政治的な立場の違いでもありました。そのような違いがあり、常日頃から対立していたファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が一緒になってイエス様のところにやってきたのです。こう記されています。「16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」。彼らはイエス様を試みようとしてやってきました。彼らは結託し、協力してイエス様を陥れようとしていたのです。共通の敵を持つこと、それが人の心を結び合わせるというのは、いつの時代でも、またさまざまな場所でも起こることなのです。ただ、そのような結びつきは共通の敵を失ったときに崩れてしまう、そのようなもろい関係であることも事実でしょう。

 ファリサイ派もサドカイ派も神様との関係を大切にしていたこと、それは偽りのないことでしょう。ファリサイ派は律法を守ることで、サドカイ派は神殿での儀式とささげ物によって神様との結びつきが得られると信じ、そのことに一生懸命でした。そして、それによって彼らはイスラエルの中で社会的な地位を得ていたのです。ところが、イエスの登場によって彼らの地位や立場が脅かされそうになったのです。ファリサイ派はある意味とてもまじめで熱心でした。そしてそれが、人を見下したり差別することにつながっていました。しかし、イエス様は差別されていた人々の押しつぶされていた声を響かせました。

 山上の説教に記されているイエス様の教えは、それまで人々がファリサイ派やサドカイ派の人々から教えられてきたことを否定するものでした。そしてそれは、彼らが築いてきた宗教的な秩序を破壊するものでした。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様に「しるしを見せるように」と迫りました。それは、今まで自分たちが築いてきた信仰のあり方、価値観を覆すのであればそれ相当の根拠を示せということでした。今まで彼らはイエス様とたびたび議論をし、イエス様の教えを覆すことができませんでした。そして、そのような時、彼らはイエス様を捕らえてしまおう、殺してしまおうと考えました。自分たちが大事にしてきたものを変えることができないからです。人間は変化を恐れます。また、失うことを恐れます。正しいか間違っているかではなく、自分の持っているものを手放すまいという心で私たちは行動を起こすことがあります。正しいか、間違っているかよりも自分と異なる意見を聞かないようにしたり、排除します。

 イエス様はこう答えられました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」。

 イエス様は「空の鳥を見なさい」「野に咲く花を見なさい」と語りかけられました。「神様は、良い者にも、悪い者にも雨を降らせ、日を昇らせてくださる」と教えてくださいました。私たちの周りには、すでに神様からの語りかけの言葉が響いています。何よりも、イスラエルの民には律法と預言者を通して神様の言葉が与えられていました。すでに神様からのメッセージをとしるしが与えられているのに、それを受け止めていないことをイエス様は批判しておられます。そして、続けてこういわれました。「16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。ここでイエス様の言われているヨナのしるしとはなんでしょうか。それは、三日三晩大魚の腹の中で過ごしたヨハネから、イエス様の十字架の死から三日目に復活されたことを指しているといわれます。そして、もう一つのことがあるでしょう。それはヨナに与えられた使命に示されています。ヨナに与えられた使命、それは神に背く人々の町、アッシリアのニネベの町に行って、罪を指摘し、悔い改めを呼びかけることでした。そして、ニネベの人々は悔い改めて神様を信じる歩みを始めたのです。それによって、神様はニネベの町に災いを下すことをおやめになったのです。ヨナの出来事に示されていること、それは、神様の御心は罪びとを裁くことではなく救うことだということです。

 よこしまで神にそむく時代の者たちはしるしをほしがるとイエス様はおっしゃいます。そして、このよこしまで神にそむくものたちを救うために、神様は御子イエス様を世にお遣わしくださいました。ヨナのしるし、三日目の復活は罪びとを救うための神様のご計画が成就したことを示しているのです。

 罪びとを愛し、救い、神の子としてくださる喜びの知らせ、この希望のしるしこそヨナのしるしです。神様は世に向かって救いの福音を語りかけられておられます。この福音を私たちも、携え、伝えてまいりましょう。

 

ー祈り-

 主なる神様、この主の日、あなたに呼び集められ、礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
 主よ、あなたは、神に背く私たちを救うためイエス様を十字架の死に引き渡されました。そして、三日目の復活により救いの喜びを私たちにお示しくださいました。
 神様は聖書のみ言葉を通して、そして、私たちの周りにあるさまざまなもの、そして出来事を通して語りかけてくださっています。主よ、私たちの裡なる霊を整えてください。
 あなたの呼びかけ、語りかけを受け止めることができますようお導きください。キリストの福音、ここに私たちの希望があります。そして、この希望を世にあって証しすることができますよう、精励を豊かに注いでください。
  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン



ー聖書- マタイによる福音書16章1節~4節

ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。