聖書 ルカ 1:57~66    宣教題 この子の名はヨハネ   説教者 中田義直

 

 イエス・キリストの誕生、それは、私たち人間を罪から救うための神様の御業です。そして、この救いの御業を通して神様は私たちに永遠の命という恵みを与えてくださいました。私たちの命はこの地上の人生を終えた後も、神様の愛に包まれて、永遠にその輝きを失うことはありません。

 そして、福音書に記されているイエス・キリストの誕生の出来事には神様の導きの中で、この神様の業を担った人々が登場します。その中で最も有名なのが、母となるマリア、そして、父となるヨセフでしょう。また、クリスマス物語には東の国から来た博士や羊飼いたちが登場します。そして、イエス様の誕生の前にもこの出来事に関わることとなった人々がいます。その一人は、マリアの親戚であるエリサベトです。彼女は神殿に仕える祭司ザカリアの妻でした。この夫婦は、信仰的にも、人間的にも非の打ちどころのない素晴らしい人たちであったと聖書に記されています。しかし、年老いたこの夫婦には子どもがいませんでした。日本でも「子宝」と言われるように、子どもは家族にとって大切な存在です。イスラエルでは、子どもが与えられるというのは神様からの祝福のしるし、神様に愛されているということのしるしでもありました。そして、このことは子どもが与えられないというのは夫婦にとって大きな欠けとみなされました。特にそのことで、女性は批判の対象にもなりました。以前、日本の政治家が女性のことを子を産む道具のように言って大きな批判が起こりました。それは本当に批判されなければならない考え方ですが、当時のイスラエルではまさに女性をそのように見ていたということも事実なのです。

 人々から尊敬を受け、大切な神様の仕事を担っていたザカリアとエリサベトでしたが、子どもがいないということは大きな苦しみだったことでしょう。このエリサベトの夫ザカリアが祭司の働きのために神殿の奥の聖所に入ったとき、天使ガブリエルが現れ、子どもが与えられるという神様からの知らせを伝えました。そして、この言葉の通りに子どもが与えられます。この子はやがて成長し、バプテスマのヨハネと呼ばれ、神の御子イエス・キリストの道を整えるという大きな働きを担うのです。また、エリサベツは自分の身に起こった人間の知恵や常識、そして限界を超えて大きな出来事を起こしてくださるという経験を通して、神の子の母となるマリアを支えるという働きを担います。

 ところで、この天使のお告げがザカリアに与えられた時、彼はそれを受け入れることができませんでした。この夫婦の年齢等を考えれば信じることができなかったのも当然でしょう。しかし、神のお告げを受け入れることのできなかったザカリアは、子どもが誕生するということが起きるまで言葉を発することができなくなってしまいました。

 やがて、エリサベトは時が満ちて男の子を出産します。そして、定めに従って、命名の時を迎えます。名前を付けるというのはとても重要です。名前を与えられることを通して、一人の人は人間一般ではなく、かけがえのない一人の人として自分自身を理解するようになってゆきます。そして、人は名前を持つことによって、他の人との人格的な関係を築いていきます。また、名付けるということは、それによって所有や支配という関係が生まれることでもありました。当時のイスラエルでは、名付けるということにそのような意味もありました。ですから、名付けることには、子どもがその家族、親族の一員であることを表すということが求められていたのです。ですから、エリサベトが子どもの名前を「ヨハネ」とするといったとき、周りの者たちは驚き、反対しました。祭司ザカリアに与えられた最初の男の子です。大切な跡取りとして、祭司の職を継ぎ、家族の仕事や財産を受け継いでいくのです。この家系の子ということがわかる名をつけることが求められたのです。しかし、神様からの言葉を受けていたエリサベトは譲らなかったのでしょう。周りの者たちは、エリサベトの言葉を否定するために父ザカリアのもとにやってきました。そして、子どもの名をどのようにするのかと尋ねました。口のきけなくなっていたザカリアは文字盤を取ってこさせ、そこに「この子の名はヨハネ」と書き記したのです。周囲の者たちは皆驚きましたが、家長であるザカリアの決めたことを受け入れるほかありませんでした。

 ヨハネという名を付けたこと、それは、この子は親の所有物でも、家の所有物でもないということを示すことでした。ヨハネという名前、それは「主は恵み深い」という意味でした。エリサベトとザカリアにとってこの子は、主の恵み以外の何物でもありませんでした。私の子、わが家に与えられた子とその所有権を主張することなどよりも、ただ神様の恵みとして受け止めることしかできない子ども、それが、この子ヨハネでした。

 人間がかつて神様の言葉に背を向け、知恵の木の実に手を伸ばしたのは、人は自分に与えられている神の恵みによる自分自身の価値を忘れ、より高い価値を求めたからでした。しかし、神様から与えられている恵みより価値あるものなどないのです。しかし、人は時として恵みへの感謝を忘れてしまうのです。

 神様の一方的な愛が注がれている恵み、その恵みを伝えるためにイエス様は私たちの世に来られました。そして、主は恵み深いという名を与えられた、ヨハネがこのイエス様の道を備える働きを担ったのです。私たちクリスチャンはこの恵みの素晴らしさを知っています。クリスマスが近づくこの時、私たちも恵みへの感謝をもって、イエス様をお迎えする備えをしてまいりましょう。

 

ー祈り-

 主なる神様、アドベントの主の日、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、あなたは、私たちにかけがえのない恵みを与えてくださいました。しかし、私たちは恵みを自分のものとしたいという所有欲や、あなたから与えられる恵みを忘れて自分の権利を主張することに心を奪われてしまうことがあります。

 主よ、私たちには必要な恵みが与えられています。どうぞ私たちの心の内を整え、霊の目をもって、今与えられている恵みに気づくことができますようにお導きください。

 そして、主よ、イエス様のご降誕を待ち望むこの時、イエス様の十字架と復活による救いにあずかっている私たちを、恵みの証し人としてお用いください。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

ー聖書-  ルカによる福音書1章57節~66節

1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。1:65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。