聖書 マタイ 16:21~28 宣教題 命の価値 説教者 中田義直
2000年前、イエス様は私たちに「福音」を伝えるために公の活動を始められました。「福音」、それは神様から私たちに伝えられた「良い知らせ」です。
ところで、「福音」という言葉はキリスト教を離れて「良い知らせ」という意味で用いられることのある日本語の一つといえるでしょう。例えば、「腰痛で苦しんでいる方への福音」とか「語学の苦手な方への福音」というように使われることがあります。そして、このような「良い知らせ」というのは、限定的な良い知らせです。「腰痛で苦しんでいる方への福音」は腰に何の問題もない人にとっては良い知らせでも何でもない一つの情報です。何を望んでいるのか、何を必要としているのか、ということによって「良い」ものは異なるでしょう。
イエス様は弟子たちに「あなたたちは私を何者というのか」と問われました。ペトロはその問いに対して「あなたは生ける神の子メシア(キリスト)です」と答えました。そして、このペトロの信仰告白が教会の土台となったのです。「イエスはキリストです」それが、最初期の教会の信仰告白でした。しかし、この時ペトロは自分で告白した「メシア」が何を意味するのか、神様のご計画を成就する「メシア、キリスト」がどのようにして私たちを救ってくださるのか、ということを理解していませんでした。
ペトロの信仰告白の後、イエス様はご自分の十字架の死と復活を弟子たちに語り始めました。聖書にこう記されています。「16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」これはとても深刻で、重要な話でしょう。イエスさまも意を決して弟子たちにご自分の担うべき努めについて話されたのでしょう。ところが、この大切なことを話し始められたイエス様をペトロは、そんなことを話さないで下さいというように注意したというのです。聖書に「16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」」と記されています。
なぜこのようにペトロはイエス様を注意したのでしょう。それは、彼の望んでいたメシアはこの地上で力をふるう政治的、軍事的なリーダーだったからです。それは当時のイスラエルの人に共通した「メシア理解」でした。そして、その理想の姿はダビデ王でした。ダビデはイスラエルの勇者でした。まだサウル王に仕えていた時に軍隊を引いて勝利をおさめ凱旋した時の記事にこうあります。「18:7 女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。」(サムエル記上) この声を聴いたサウル王はダビデに深い嫉妬の念を抱きました。しかし、人々が望んでいる英雄、それは、多くの敵を打ち破るリーダーでした。殺されるのではなく、多くを殺す力をふるうことを人々はメシアに求めていたのです。だから、ご自分が捕らえられ、殺されるという話をしたイエス様のことをペトロはいさめたのです。想像ですが、「あなたはメシアではないですか。メシアがそのようなことを口にしてはいけません。人々が失望します」。そんな思いがペトロの心にはあったのではないでしょうか。
しかし、このペトロをイエス様は厳しくしかります。イエス様はペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのです。サタン呼ばわりですから、これ以上はないほどの叱責です。ペトロはどれほど驚いたことでしょう。そして、ほかの弟子たちも震え上がったのではないでしょうか。他の弟子たちも、ペトロと同じようにイエス様の言葉を聞いていたと思われるからです。そして、イエス様がなぜ怒っているのか、その理由をしっかりと受け止めることはできなかったでしょう。
イエス様は続けて弟子たちに語りかけられました。「16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
イエス様は「命を失わないように」と弟子たちに語りかけているのです。ペトロや弟子たちが望んでいたのは、この地上で勝利を得、栄光を手にすることでした。しかし、地上の事々は移ろいゆくものです。そして、すべての人は終わりの時を迎えます。ヘロデ王もローマ皇帝も終わりの時を迎えました。そして、その時この世で手に入れたものは、この世に置いてゆかなければなりません。私たちが死を超えて持ち続けることができるもの、それは「信仰と希望と愛」なのです。信じること、希望を持つこと、そして愛することは死を超えて人と人との心を結び、神と人を結びます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは「自分の思いを捨てて私を信じ、私が十字架で示すあなたに注ぐ愛を受け入れ、希望をもって私に従いなさい」ということに通じるのではないでしょうか。
サタンの誘惑、それは、神様から心を引き離しこの地上のことが人生のすべて、地上の成功だけが命の価値を決めるという誘惑です。しかし、私たちの命に価値を与える者は本当にこの世のことなのでしょうか。そうではなく、失われることの無い永遠の神の愛に包まれていること、み子さえも惜しまずに十字架を背負わせるほどに神に愛されている、そこに、私たちの命の価値がるのです。
ヨハネ福音書3章16節、17節をお読みいたします。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ー祈り-
主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、あなたは御子イエス様さえ惜しまぬほどの愛をもって、私たちを愛してくださいました。しかし、主よ、私たちは人の価値を、そして、命の価値さえこの地上での成功や栄光と結びつけて考えてしまいます。けれどもイエス様は、命の価値は愛されていること、誰よりも神様に愛されていることによるということを、教えてくださいました。
価値があるから愛されているのではなく、あなたに愛されているゆえに私たちは罪人から、永遠に価値ある者へと変えられました。そして、私たちの「命」がいつまでも光り輝く命であるようにと、イエス様に十字架を背負わせてくださいました。このイエス様の愛を信じ、希望をもってイエス様に従って歩む私たちでありますように。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書- マタイによる福音書16章21節~28節
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」