「愛する子」              マルコによる福音書1章9~11節

宣教者:富田愛世牧師

【福音の時代】

 マルコ福音書は1章1節で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出していますから、すぐにイエスについてのお話しが始まるのだろうと期待すると思います。

 しかし、不思議なことにイエスの話しが始まるのではなく、2~8節までバプテスマのヨハネについての話が始まっているのです。

 イエスの話が聞きたいと思っている人にとっては、必要のないことに思えても仕方がないことだと思いますが、一つの時代が終わり、次の時代へと移るのだという事を示すためには必要な事だったのではないでしょうか。

 それは「律法と預言者」の時代、今、私たちが手にしている聖書でいうならば、旧約聖書、ヘブライ語の聖書の時代が終わり、新しい時代が始まる、新約聖書の時代が始まるという事を宣言しようとしているのではないかと思うのです。

【ヨハネとイエス】

さて、9節をもう一度見てみましょう。「そのころ」という言葉で始まっています。「そのころ」とはバプテスマのヨハネがヨルダン川に現れ、人々に悔い改めのバプテスマを授けていた時を指しています。

多分バプテスマのヨハネの噂はナザレ村にいるイエスの耳にも入ってきていたのだと思います。イエスはご自分の時が来たことを察してナザレを出てヨルダン川に行き、そこでバプテスマのヨハネからバプテスマを受けるのです。

ここに一つ、ハッキリとしたイエスの姿勢を見ることができると思うのです。マルコ福音書にはヨハネとイエスの問答は記録されていませんが、マタイ福音書では、バプテスマを受けに来たイエスに対してヨハネは思いとどまらせようとして「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と問いかけているのです。

その問いに対して、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と語っているのです。

ヨハネは自分の使命として悔い改めのバプテスマを「授ける」ためにヨルダン川に来ました。しかし、イエスはバプテスマを「受ける」ために来たのです。

これは律法と福音の方向性の違いなのではないでしょうか。どちらも魂の救いのために必要なものです。そして、律法は行うことを中心にしています。律法を行うことによって、神から義と認められようとするのです。

しかし、福音は聞くこと、受けることを中心にしています。もちろん聞いた人、受け入れた人は、福音に押し出され、行う者へと変えられていくわけですが、この順番、方向性はとても大切なものなのです。反対になってしまってはいけないものだと思うのです。

イエスの姿は「授ける」のではなく「受ける」姿なのです。そして、イエスはバプテスマを受けたという事によって、私たちと同じ姿をとってくださったのです。神の子であるにもかかわらず、僕の姿、人と同じ姿をとってくださったのです。

【聖霊が降る】

イエスがバプテスマを受け水から上がって来た時、何が起こったでしょうか。10節を見ると、天が裂けて“霊”が鳩のように降って来たと記録されています。

天が裂けるとは、どういう事でしょうか。この「裂ける」という言葉は他の個所でも印象的に使われているので思い起こされる方もいると思います。

それはイエスの十字架の場面です。同じマルコ福音書15章38節に「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記録されています。

天が裂けて聖霊が降ったという事は、今まで閉ざされていた天と地、つまり、神と人との関わりを閉ざしていた壁が解放されたという事を意味しているのです。そして、十字架の出来事において裂けた神殿の幕とは律法を中心とした神殿信仰という縛りから、イエスの十字架によって解放されたという事を意味しているのです。

ここに解放者としてのイエスの姿を見ることができるのです。

また、裂けた天から気って降って来た聖霊は「鳩のよう」だったと聖書は記録しています。

ハトという鳥も聖書にはよく登場します。聖書以外でも一般的に平和の象徴として、様々な平和的な式典では、ハトが飛ばされることがあります。

また、創世記の8章では、ノアの時代、神が洪水によって人類を滅ぼした後、地上の水が引いたかどうかを確かめるため、ノアはハトを箱舟の窓から飛ばしました。そして、ハトはオリーブの葉をくわえて戻ってきて、地上に乾いた地が表れたことを伝えました。

ここに登場するハトは、ノアによる新しい時代の到来を告げる使者として、その役割を果たしています。つまり、新しい時代の到来を象徴するものとして登場しているのです。

イエスのバプテスマの場面でも聖霊がハトのように降るとは、イエスによって新しい時代、福音の時代が到来することを象徴しているのです。

【わたしの愛する子】

11節では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という「天からの声」つまり神の宣言が記されています。

1節で「神の子」と語られるイエスは11節では「愛する子」と呼ばれるのです。

ここにも受け身として「受ける」イエスの姿が描かれています。イエスの方から神に対して何かを求めているのではありません。イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言ってバプテスマのヨハネからバプテスマを受けただけです。

バプテスマを受けたという事を神は喜んでくださり、私の愛する子と呼びかけてくださるのです。

神はとても不思議だと思います。私たちは愛してもらうために何かをしなければならないと思います。そして、その何かというのは、相手のためになることだと、自分の常識や価値観をベースに考えてしまいます。しかし、神はバプテスマを受けるだけで「愛する子」と呼びかけてくださるのです。

私たちは祈りの時などに「愛する神さま」と呼びかけることがあります。神を愛するという事はとても大切なことです。「愛する神さま」と呼びかけてはいけないと言っているのではありません。そう呼びかける前に、私たちは神に愛されているという事をしっかりと自覚しなければならないのだと思うのです。

「私の愛する子」と宣言されたイエスを十字架に架け、死に渡されるほど、私たちを愛されているという聖書の言葉を真剣に受け止め、愛されている一人だという事に喜びと誇りと責任を持たなければならないのではないでしょうか。

敢えて受け身の姿勢をとられるイエスの姿から私たちは何を読み取るのでしょうか。