「ガリラヤで」 マルコによる福音書1章14~15節
宣教者:富田愛世牧師
今日の箇所は、マルコ福音書1章14~15節という本当に短い二節ですが、非常に重要な二節なのです。どのように重要なのかと言うと、この14節から新しい時代が始まるのです。
14節は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まっています。
バプテスマのヨハネについては1月19日のメッセージでもお話ししましたが、少しだけ振り返ってみたいと思います。
ヨハネは人々を悔い改めに導くという明確な使命を持った、最後の預言者でした。この人が捕らえられ、この後ヘロデ王によって殺されるわけですが、そこで一つの時代は終わりを告げるのです。
この終わりを告げる時代を律法の時代と呼び、次に来る新しい時代を福音の時代と位置づけ、福音の時代が始まることをマルコ福音書は語っているのです。
そして、この新しい時代の主役になるのがイエスなのです。イエスはガリラヤのナザレという田舎の出身でした。ガリラヤと言うと何となくガリラヤ湖という湖の周りを思い浮かべますが、ナザレと言うのはガリラヤ地方のはずれで、湖の近くではありませんでした。常に中心ではなく端なのです。当時の人々に言わせるならば「ガリラヤからは何も良いものは出てこない」と言うことなのです。
物語の主役になる人物には、何か華があってほしいと思うのですが、イエスには、そういった家系や育ちの良さという華は、全くありませんでした。
しかし、神の計画は重要ではないと思われていたものが、実は重要なのだという価値観の転換を起こすことだったのです。そして、そこから神の福音が拡がっていくのです。
【時は満ちた】
15節を見ると「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスの言葉が書かれています。
イエスがこれから語られる福音は、この3つの言葉が全てであるといっても言い過ぎではないのです。ここに凝縮されているのです。
それでは、これらの言葉を一つずつ見ていきたいと思いますが、はじめに「時は満ち」ということです。今、私たちがこの言葉を聞いたとしても、それほどインパクトを受けませんが、当時のユダヤ人は特別な思いをもって聞いたはずなのです。
それは、イザヤやエレミヤといった預言者たちが語り、バプテスマのヨハネが「わたしの後に来られる方」と言ったメシヤ、人々が待ち望んでいる救い主がいよいよ来られるということを宣言しているのです。
また、この「時」という概念も、よく考えるならば不思議なものなのです。私たちの周りにあるものでコントロールできるものと、出来ないものがあります。コントロールできないものの代表が「時」ではないかと思うのです。すべての人には一日24時間という限られた時間が与えられています。
有能な人にはより多く与えられるということはありません。どんな人にも同じなのです。早くすることも、遅くすることもできません。タイムマシンなども理論的にはできそうな気がしますが、絶対に無理だと思います。つまり何が言いたいのかと言うと、時とは完全に神の支配下にあるということなのです。
時が満ちると言うのは、その時がやって来たということもありますが、中心テーマは神の支配に入っていくということなのです。時が満ち、神の時がやってきた、だから、その神の支配の中に身を委ねていかなければならないのです。
そして、この救いの時の訪れと言うのは、そのまま律法の終焉でもあるのです。律法とは元々は神によって与えられたものですが、人の手によって律法主義という異質なものに変えられてしまいました。
イエスの宣教活動の開始と共に律法の時代は終わったと言っているのに、未だに教会の中には律法主義が根強く残っています。新しい時代が始まっているのに、律法主義に逆戻りしようとする誘惑に駆られているのです。イエスの福音は完全な神の支配に身を委ねるという新しい時代の到来を告げているのです。
【神の国は近づいた】
次に「神の国は近づいた」という言葉ですが、この言葉は日本語としておもしろい表現だということなのです。
わたしは言語学者でも何でもありませんから、言われるまで気づかなかったのですが、電車がホームに入る時「電車が来ますから、白線の後ろに下がってお待ちください」とアナウンスがあります。これがヨーロッパ系の時制のハッキリした言語だと、電車がホームに入るまでは未来形で語られ「電車が来るでしょうから」となり、入ってきた時に完了形になると言うのです。
ですから、正しく言うなら「電車が来ましたから」とならなければならないそうです。しかし、来てしまってから、白線の後ろに下がったのではもう遅いのです。まだ来ていないけれど、すぐに来る、だから後ろに下がって待ちなさいと言うことなのです。
これが「神の国は近づいた」という言葉にも当てはまると言うことなのです。人との距離を表す時10m先にいて近づいてくると「近づいてくる」と言います。そして、だんだん近くなって、隣に来ると「近づいた」と言わずに「隣に来た」となるのです。ですから「神の国は近づいた」と言う時、共にいるとか、一緒にいるという感じがしませんが、実はこの言葉は、隣にいるとか側にいる、もっと言うなら共にいるという意味を持っているのです。
イエス様「神の国は近づいた」と語るのは、神の国が近づきつつあるとか、近づくはずだとか言うのではなく、もう、すでに私とあなた方との只中に神の国が来ているのですという宣言なのです。
【福音を信じなさい】
最後に「悔い改めて福音を信じなさい」という事ですが、この言葉は長い間、誤解を受け続けてきました。今も誤解を受けたまま、この言葉によって躓いて、信仰を受け入れられないでいる人が大勢いるのです。
それはどういう誤解かと言うと、悔い改めなければ救われないと言う誤解です。ただ注意してほしいのは、悔い改めが必要ないと言っているのではありません。悔い改めることはとても大切なことですが、この悔い改めということを道徳的に捉えてしまうということが、一つ目の誤解なのです。
悔い改めるものとは、私たちの罪です。しかし、この罪ということをすぐに道徳的に捉えてしまうのです。
いわゆる悪いことをする、嘘をついたり、人の悪口を言ったり、暴力を振るったり、もちろん、そういったことはしないほうが良いに決まってます。しかし、そういった悪い行いをやめて、良い行いをすることではないのです。
人生の方向転換をすると言うことなのです。今までは神に背を向けて歩んでいた人生の方向を変えて、神の方を向いて歩んでいくと言うことなのです。もちろん、その結果として、悪い行いよりも、良い行いをすることの方が増えることがあるでしょう。それらは結果であって、それが目的ではないのです。
もう一つの誤解は、悔い改めは救いの条件ではないということなのです。人間とは不思議なもので、聖書の中には救いに至る条件など何もなく、ただイエスを救い主と信じることによって救われるのだと言いながら、悔い改めない者は天国に入れないと言ってしまうことがあるのです。福音を信じることと救われるということは別の次元の事柄なのです。
人は救いに与らなければ悔い改めることはできません。先程も言ったように悔い改めるということは、神に向かって方向転換をすることですから、罪に支配されているうちは、神を見ることができないので、方向転換できないのが当たり前なのです。そして、救いを経験するということは、新しい価値観に気づくということなのです。新しい価値観とは神の価値観であり、福音の価値観なのです。
古い価値観とは自己中心的な価値観です。自分さえ良ければそれでいいのです。自分にとって都合のよい事ばかりがおきて、幸せな気分になる事が大切なのです。そして、次の段階として自分の愛する者たちが同じように、幸せな気分になる事が大切なのです。とにかく自分や自分の愛するものたちが中心になっているのです。
しかし、新しい価値観、神の福音の価値観とは、イエスの生き方なのです。罪がないのに十字架に掛けられてしまうこと、罪がないのに罪の身代わりになる事なのです。この世の価値観から見るならば、バカげた、愚かな生き方なのです。しかし、その価値観から解放される時、私たちは本当の自由を手に入れることができるのです。
今、新しい時代に生かされている私たちはもう二度と律法主義という古い時代に逆戻りしてはいけないのです。愚かさから解放された者として自由に、喜びに満たされて、神を賛美し続ける生活をおくっていきましょう。