「だまっていられない」 マルコ福音書1章40~45節
宣教者:富田愛世牧師
1月からマルコによる福音書を読み続け、具体的なイエスの公生涯と呼ばれる活動が始まって様々な出来事が起こりました。
まだ1章だけしか読んでいませんが、悪霊追い出しから始まり、シモンのしゅうとめの熱を癒し、続けて多くの人々の癒しと悪霊追い出しが記録されているということは、注目すべき事柄ではないかと思うのです。
理性的なキリスト教会においては、癒しということがほとんど語られなくなっていますが、イエスの宣教活動を見ていくならば、癒しを含めた、奇跡の業についても注目していかなければならないと思わされるのです。
今日の箇所でも、癒しの業が行なわれていますが、これまでと比べるなら大きな違いがあります。今まではイエスがその場に行ったり、癒しを必要としている人が連れてこられたりしています。しかし、今日の個所に出てくる人は、自分からイエスの前に出てきて、ひざまずき、願い出ているのです。
この態度は、イエスに対する絶対的な信頼の込められた態度だと受け止めることが出来ます。私たちの生活の中で、誰かに対してひざまずくなど、まず有り得ない行為だと思うのです。今までの人生で、誰かにひざまずいた経験のある方はいるでしょうか?たぶんいないと思います。
さらに、この人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と語りかけています。イエスに対して「あなたがそうしたいと願うならば、きよくすることが出来ます」と言うのです。イエスの意思しだいで、きよめられるのだという確信に基づいた言葉なのです。
【イエスのあわれみ】
この願いに対してイエスは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」ました。ここに「深く憐れむ」という言葉が出てきますが、この言葉は別の写本を見ると「憤る」と訳せる言葉が使われているそうです。
イエスの「憐れみ」は表面上のことではなく、なぜ、この人がこのような目にあっているのかを、深く考えられたと思うのです。
律法によって、病気による「けがれ」のために町から追い出され、人々との交わりを禁じられました。つまり、肉体的な苦しみだけでなく、交わりを絶たれるという精神的な苦しみも背負っていたのです。
そんな制度に対して、イエスが「憤り」を覚えないはずがありません。イエスの憤りは、この人を「けがれ」のために町から追い出した人々、祭司や律法学者といった宗教家たちに対するものだったと思うのです。
律法の規定では病気によって「けがれ」た者に触れてはいけませんでした。しかし、イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」律法の規定を犯しました。
イエスの手が触れた時の、この人の気持ちを想像してみてください。今までは人前に出る時に「私はけがれている」と叫び、人が近寄らないようにしなければならなかったのです。もう何年も人に触れたり、触れられたりしたことがなかったのです。
今はコロナウイルスの関係で人との接触ということが制限されていますが、人間にとって人と触れ合うという事は非常に大切なことだと思うのです。
イエスの手のぬくもりだけで、もう胸がいっぱいになったのではないかと思うのです。でも、それだけで終わりませんでした。その手のぬくもりが、この人の病をも癒したのです。
【口止め】
続く43節でイエスは「すぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意」しているのです。この「去らせ」という言葉は「追い出す」というような強い意味の言葉なのです。
イエスに癒してもらったのだから、もう少し一緒に居たかったかも知れませんが、イエスは厳しく注意して追い出したのです。しかし、ここにもイエスの深い愛があるのです。
この人は病気による「けがれ」のために町には住めませんでした。ですから、きっとイエスと出会われたのは、町外れの寂しい所だったと思います。そこは、人間の暮らす場所ではなかったのです。
だからイエスはこの人を、町に向けて追い出されたのです。「こんな所にいちゃダメだ。人と交わるために町に出て行け」と言われたのです。
そして、3つの事を命じました。「自分が癒されたことを人に言わない事」「祭司に体を見せる事」「定められた献げものをする事」です。
しかし、なぜイエスの業を人に言ってはいけなかったのでしょうか。なぜ口止めしたのでしょうか。
当時の人々は病気になると呪術師や祈祷師の所に行って、癒しを求めたのです。ですから、イエスはそういった呪術師や祈祷師と同じように見られてしまわないように、口止めをしたのです。
しかし、この人は話さずにはいられなかったようです。3つの命令の内、祭司に見せることと献げものをすることは守ったようですが、もう一つの「人に話さないように」という命令だけは守れなかったようです。
町に行って、自分の身に起こったことを人々に話してしまったのです。でもこの気持ちは理解できると思います。本当に、心の底から喜びが与えられたのですから、黙っていろと言うほうが酷なことです。
【神の計画と人の思い】
この人の証言によって人々はイエスの所に続々と集まってきました。しかし、聖書は人々が集まってくることを否定的に書いています。
このことから想像するなら、この人々はイエスの癒しにしか興味がなかったようです。人々は超自然的な出来事に対する関心だけで、イエスのもとに集まったのです。
教会は人々が、教会にたくさん来ることを良しとしてきました。しかし、それが必ずしも神の計画にかなったことではないということを、この聖書は示しているのです。
この人に対してイエスは、人に話すなと口止めをしていますが、これはずっと秘密にしておけということではなく、今は祭司に体を見せ、献げものを捧げることが最優先されるということです。時が来れば、語ることも許されるのです。
しかし、時を間違うならば、見た目には良い事をしたように見えても、それは神の計画の中では邪魔な行為になってしまうという事なのです。コヘレトの言葉3章に「何事にも時があり」と書かれ7節には「黙する時、語る時」とある通りです。
神の定められた「時」を見定めることが、いかに大切であるかを私たちはもっと真剣に考え、時を求めなくてはいけません。
神の時を見定めるということは、本当に難しいことだと思いますが、周りの状況や環境、そういったものを冷静に分析し、さらに聖書による裏づけによって、確信していくことこそ、教会のなすべき業なのではないでしょうか。