前 奏
招 詞   コヘレトの言葉4章13節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生378 海よりも深い主の愛
主の祈り
讃 美   新生134 生命のみことば たえにくすし
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章9~11節
                       (新共同訳聖書 新約P361)
宣 教   「祈ります」   宣教者:富田愛世牧師
【知る力】
 パウロは1章で、どれほどフィリピ教会の人々を思い、愛しているかを語ります。そして「あなたがたの愛がますます豊かに」なるようにと願い、祈っているのです。ここでパウロは「知る力と見抜く力とを身に着け」ることによって「あなた方の愛がますます豊かになる」というように語っているのですが、知る力や見抜く力の延長線上に愛があるとは、考えにくいような感じがします。
 たぶんここで、私たちがイメージする知る力や見抜く力とパウロがイメージするものとは、根本的に違うものなのではないかと思うのです。
 パウロが祈り、求める「知る力」とは何を意味するのでしょうか。ここで注意しなければならないのは、本当に知っているということと「知っているつもり」の違いです。ことわざに「一を聞いて十を知る」というものがあります。私はほんの一握りの人だけが、一を聞いて十を知るようなことが出来るのであって、99パーセント以上の人には不可能なことだと思います。きっと、一を聞いて十を知ったような気になっている人が、知っているつもりになっている人だと思うのです。
 知るためには、十分な時間と対話が必要だと思います。そうして得たものが知識と呼ばれるものだと思うのです。知識を得るということはとても大切な事です。しかし、パウロにとって知るということは、知識として蓄えるだけでは不十分なのです。
 カルチャークラブに通う事によって知識を増やすことはできると思います。また、資格マニアと呼ばれる人たちがいて、そういう人たちは広い知識を持っています。何かの時に役に立つのだろうと思います。しかし、そういう知識に加えて、それらをどう用いるかという知恵がなければならないと思うのです。
 知恵を用いて知識を有効に活用することが知るということではないかと思うのです。そのように知るならば、知ることによって、その人自身が変えられるのです。本当の意味で「知る」ということは、変えられることによって証明されるのです。
【見抜く力】
 続いてパウロは「見抜く」ことについて語ります。見抜くと言われて皆さんは、どのような事を思い浮かべるでしょうか。私は「本物を見抜く」といったような言葉を思い浮かべます。報道番組などで、外国から輸入されたブランド商品が本物か偽物かを見抜くといった場面が登場します。私にはどちらが本物で、どちらが偽物か、まったくわかりません。そもそも本物のブランド品を知らないから当たり前かもしれません。
 しかし、ここでパウロが語ろうとしているのは、本物か偽物かということではなく、さらに掘り下げたところにある「正しさ」ということではないかと思うのです。そして、正しさということを考える時、絶対的な基準があると考えるのは、とても危険です。
 ウクライナでの戦争に正義はあるのでしょうか。20年前のイラク戦争を思い出していただければ分かることですが、アメリカのキリスト教右派と呼ばれるクリスチャンたちは「イラク戦争は正義の戦争だ」と言いました。その根拠は「聖書に基づく絶対的な正義」でした。正義について話し出すと、時間が足りなくなるので、これ以上話しませんが、絶対的な基準を人間が決めるということには危険が多すぎるということだけ理解していただきたいと思います。 
 絶対的な基準がなければ、何かある度に基準が揺れ動いて無秩序になると心配されるかもしれません。しかし、絶対的な基準ではなく、目的をハッキリさせることによって、明確な基準を作ることが出来るのです。
 正しいのか正しくないのか、という判断を下す時、絶対的な基準ではなく、今考えようとしている正しさとは、目的に沿っているのだろうか?と考えることによって、一つの基準が生まれてくるのです。「この目的のためには、これが正しい」という答えを見抜いていく力が必要なのです。
 知る力と見抜く力を身につければそれでいいのかというと、そうではありません。コリント13章でパウロは愛の大切さを強調していますが、同じように知る力と見抜く力を身に着けても、もしそこに愛がなければ何の意味もなくなってしまいます。
 愛のないところで、知る力や見抜く力を用いたとするなら、それはただの裁きの道具になってしまう危険を持っています。ただ、最初に言ったように、私たちの常識の範囲で考える「知る力と見抜く力」ではなくパウロが語る「知る力と見抜く力とを身に着け」るならば、愛がなければならないではなく「愛がますます豊かになる」のです。
【キリストの日に備えて】
 そうすれば「本当に重要なことを見分けられるように」なるのです。本当に重要な事とはどのような事でしょうか。ここですぐに結論を出すと聖書の順番から言って10節の後半と11節について話しにくくなるので、後回しにして10節後半を見てみましょう。
 「そして、キリストの日に備え」るということですが、キリストの日とは、最後の審判の日を指しています。この最後の審判の日については、様々な解釈がなされていますが、保守的、伝統的な解釈としてルカ16章にある「金持ちとラザロ」のたとえ話に基づいた解釈が有名で、そこに出てくる裁きと地獄のイメージが強いと思います。
 しかし、そのような裁きと地獄のイメージは非常に危険な解釈だと思います。もしも、教会がピラミッド型の組織で、その秩序を守ろうとすれば、人々に恐怖を植え付けてコントロールしようとします。そして、もしかすると過去において教会は、そのようなマインドコントロールをしていたのかもしれません。
 しかし、聖書の神がそれを望んでいるのでしょうか。そのひとり子まで犠牲にして、人々を救おうとされた神が、次の瞬間「お前は地獄行きだ」などと言って見捨てるでしょうか。
 聖書には、そこまで詳しく書かれていないので、結論を出すつもりはありません。ただ、見方を変えるならば、その日は恐怖の日ではなく、恵みの日なのです。マタイ25章31節以下でイエスはたとえを用いて「裁きの日」について語っています。
 そこでは旅人をもてなしたり、小さくされた者たちに親切にした者は王の祝宴に招かれる、つまり天国に行けるのですが、旅人をもてなすことや困っている人を助けるのは、ユダヤの基本的な習慣の中では当然のことであって、特別な事ではなかったのです。
 そのように考えるならば、王の祝宴に招かれるのは、一般的な庶民なのです。イエスがここで非難しているのは、祭司や律法学者といった、形骸化し、自己保身にしか興味を持たない、当時の宗教指導者たちなのです。
 だからこそ、続きの言葉として、キリストの愛に根差した、その日に備えて「清い者、とがめられるところのない者になれ」ではなく「清い者、とがめられるところのない者になり」と語るのです。「清い者、とがめられるところのない者」になっているという事なのです。
【キリストにある義の実】
 聖書に対する先入観というかイメージの中に「こうしろ、ああしろ」「こうなれ、ああなれ」と命令されているように読もうとしてしまう事があります。とくにここに書かれているように「清い者」とか「とがめられるところのない者」という言葉には、そうならなければという反応を示しやすいので注意しなければなりません。聖書ははっきりと「そうなれ」ではなく「そうなる」と書いているのです。
 ただ、心情として「自分が清い者」だとか「とがめられるところのない者」と言えない謙虚さを持っているので仕方ないかも知れませんが、聖書が宣言していることは、堂々と胸を張って受け止めていいと思います。
 反対に自分の努力や精進、修行によって「清い者、とがめられるところのない者」になろうとすると、もちろんそれは達成できる目標ではなく、努力目標と言われるようなものですが、ある程度まで達したり、努力したりしている自分に酔いしれて、高慢になってしまう危険があります。
 また、こういった宗教的な事柄に関して言うならば「優越的神聖感」というものがあるそうで、一般的な人を「俗的な人」と見下してしまい、自分は一段階上にでもいるように錯覚してしまうのです。そうすると自分が裁く側になってしまうので注意しなければなりません。
 最後11節でパウロは「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と祈ります。本当に重要な事とは、ここにあるように「義の実」を受け「神の栄光と誉れ」をほめたたえることなのです。
 キリストによって与えられる義の実とは「愛」以外には考えることができません。そして、神の栄光と誉れをたたえるということは、私たちの礼拝そのものではないでしょうか。
 あの人が休んでいる、奉仕しない、牧師のメッセージが霊的でない、賛美が暗い、厳粛さに欠ける、その他にも礼拝に対する批判はたくさんあります。しかし、私たちが第一にすべきことは、批判する事より先に、今礼拝できる幸いを感謝する事、この礼拝のために誰かが備えていてくれ、祈っていてくれたことへの感謝です。
 そして、何よりもイエスが招いてくれているという事実なのです。礼拝のすべてのプログラムはイエスの愛によって、すべての人に向けられている招きなのです。人の思いや宗教的な規律、秩序のために、イエスの招きを拒絶してはいけないのです。

祈 り
讃 美   新生568 この旅路は険しいけれど
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏
報 告
挨拶の時