前 奏
招 詞   箴言3章34節
讃 美   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
讃 美   新生338 よきおとずれを語り伝え
主の祈り
讃 美   新生319 豊かなる恵みを
聖 書   フィリピの信徒への手紙2章1~11節
                  (新共同訳聖書 新約P362)
宣 教   「へりくだり」    宣教者:富田愛世牧師
【へりくだる?】
 今日は「へりくだり」というタイトルを付けましたが、言葉にすれば簡単に言うことができますが、これは「言うは易し、行うは難し」という諺の代表的なものだと思います。
 私を含めて、ほとんどの人が徳として「へりくだることは大切だけれど、へりくだれないよね」と思っているのではないかと思います。
 しかし、聖書は「へりくだる」ように勧めています。私たちの周りを見ると、様々な自己啓発や生き方セミナーのようなものがあります。そういったところでは、私たちが発想を変えていくことが大切で、そのためには、きっかけになるような行動を毎日繰り返し、訓練すれば、身につくのだと主張することがあります。
 そういった訓練も無駄な努力ではないと思いますが、よほど強い意志がなければ、長続きしないのではないかと思いますし、行動によって事柄の本質をとらえることの出来る人は、ごく限られた人で、他の大多数は本質に気が付かず、形だけを真似るような結果になるような気がしてしまいます。
 「へりくだる」という事についても同じように、発想を変えることによって、相手の優れたところを見つけて、それに敬意を表すという形でへりくだる姿勢をとることが出来るかもしれません。それにしても、ある程度までならば、努力してへりくだれるようになるのかもしれませんが、これは非常に難しいことです。
【あるならば】
 聖書がへりくだるように勧める背景には、それなりの理由と、また方法といいますか、へりくだれるようになるための裏付けがあるのです。パウロは今日の箇所で「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」があるならと語ります。
 私たちは何かをする時に、強い意志や大きな目的意識を持つことが必須条件であると思っています。確かに、それらがなければ何も起こりません。
 社会的に大きな事業を起こした人々の話を聞くと、必ず大きな、というか明確な目的意識を持って、その事柄に取り掛かっています。そして、ほとんどの場合、順風満帆に行くのではなく、途中では様々な問題が発生して、それらを乗り越えるために、強い意志を持って、乗り越えたのだという話をよく聞きます。
 1990年代には教会の中でも教会成長論というものが流行り、多くの本が出版されました。私もそういう流れが嫌いではありませんので、その類の本を読みあさり、その通りにプログラムを計画したり、メッセージを語ったりしました。ただ、私には強い意志がなかったので、すぐにあきらめてしまいました。
 でも、それは私だけではなかったようです。他にも大勢のクリスチャンが同じような経験をしていたのです。そして、そのような挫折経験のあるクリスチャンたちが、その次に何をしたのかというと聖書を読んでみたのです。つまり、基本に返ったということです。
 どういう事かというと、ここでパウロも語るように「あるなら」ということなのです。クリスチャンや日本人には真面目な人が多く、それに加えて完璧主義者が多いように感じるのです。徹頭徹尾とか首尾一貫といった言葉が好きで、何事についても一生懸命頑張り、妥協を許さないのです。しかし、パウロは大きな目的意識や強い意志を持てというのではなく「キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心」があるならばと語ります。
 ただし、そこには「キリストによる」という条件が付いているのです。もちろんキリストによらない愛の慰めや霊による交わりなどナンセンスですが、キリストによって励まされ、慰められ、交わることができ、慈しみや憐みの心を持つならば、私たちの意識は変えられるはずなのです。そして、キリストという偉大な方、豊かさと愛と哀れみのお方を前にした時、自然とへりくだっている自分を発見するはずです。
【へりくだった心】
 時々、へりくだりと自分を卑下することを混同する人がいますが、へりくだるとは必ずしも自分を小さくすることではありません。キリストの前では小さくされますが、人との比較によって自分は何もできないとか、あれがダメ、これがダメとダメ出しすることは自己否定であってへりくだりとは全く違う事柄なのです。
 謙遜という言葉を説明する時にも似たようなことが起こるのですが、日本的な謙遜という感覚には、遠慮という概念も含まれるような気がします。遠慮して前に出ない性格の人を謙遜だと言う傾向があります。また、他人の力を借りずに、自分の力で何かを成し遂げた人は、人に褒められると「たいしたことではありません」とか言って謙遜ぶります。
 しかし、本当は様々な人の力を借りて、助けられて出来たことなのだから、たいしたことではないのではなく、たいしたことであり、あの人この人の力によるのですから、ありがとうであり、誰々の協力によって出来ましたと、言うべきだと思うのです。
 3、4節に書かれているように、相手を自分より優れた者と考え、相手のことを思いやることなのです。相手を自分より優れた者と考えるということも、自分を卑下する事に通じるような気もしますが、相手の優れた面を見つけて、それについては敬意を払うという事ではないかと思うのです。
 以前、世田谷にいた頃、世田谷宗教者懇話会という会があり、年に一度、世界の平和について祈る時を持ちました。仏教、神道、イスラム教、そして、キリスト教が一緒になっていましたが、一つだけ決まりごとがあり、それはお互いの宗教に対して敬意を払うということでした。
 それぞれの宗教の中には、超保守的な過激派がいるのも事実です。しかし、この会の中では、お互いに敬意を払い、本当にへりくだっていると感じました。仏教徒だから賛美歌を歌わないとか、ムスリムだからお経を唱和しないとか、そういったことはせず、お互いが大切にしている事柄に対して、敬意を払って大切にしていたのです。
 そこには「キリストによる」ということはありませんでした。しかし、それぞれが、その信仰によってへりくだりたいという願いを持っていたと思うのです。へりくだることによらなければ、人との関係の中に一致を生み出すことは難しいと思わされます。
 さらに私たちが「キリストによる」という視点に立ってへりくだることができたとするならば、その時、私たちはキリストに似た者へと変えられていくというのです。
【神の恵み】
 パウロは2節の後半で「わたしの喜びを満たしてください」と語っています。わたしの喜びとはフィリピ教会の中に一致が生まれ、へりくだって互いに愛し合うことなのです。
 フィリピ教会に一致がなかったとか、互いに愛し合っていなかったということではないと思います。手紙全体の文脈から見ていくならば、むしろ一致した教会、愛し合う教会だったのではないかと思います。パウロがそのような願いを持ったのは、教会がキリストの体だから、それにふさわしい姿を持ってほしいと願い続けていたからなのではないでしょうか。
 イエスはご自分を低く、小さくされました。7節以降にそのことが詳しく書かれています。そして、十字架に架けられて死ぬまで、神の愛の御旨に従いました。
 世の常識からすれば、犯罪者として極刑に処せられ無残に死んでしまうのですから「敗北者」かもしれません。しかし、イエスこそが「勝利者」だと聖書は証言しているのです。その勝利の方法とは力による勝利ではなく、愛による勝利なのです。
 力による勝利には必ず勝者と敗者がいます。しかし、愛による勝利には敗者は存在しないと思うのです。イエスを十字架に架けた人々、ユダヤの律法学者や祭司たちには救われる資格がないとイエスが言うでしょうか。イエスの口からは「神よ彼らをお赦しください」という祈りの言葉が出てくるのです。赦された人はどう感じるのでしょうか。
 きっとその時に、心の底からへりくだることができるようになると思います。へりくだるとは、まさしく愛によって促される赦された者の姿なのです。

祈 り
讃 美   新生583 イエスにある勝利
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏