前 奏 招 詞 ローマの信徒への手紙8章26節 讃 美 新生120 主をたたえよ 力みつる主を 開会の祈り 讃 美 新生575 栄えのみ神よ 主の祈り 讃 美 新生604 主を仰ぎ見れば 聖 書 創世記18章20~26節 (新共同訳聖書 旧約P24) 宣 教 「ソドムの運命」 宣教者:富田愛世牧師 【キリスト教会の使命】 キリスト教会は今から二千年前、イエスが神の子として、この世に来られ、活動を始めた時に、その原型が出来始めたと言っていいでしょう。その後、イエスの弟子たちによって整えられ、アンテオケという現在のトルコにある町で、初めてクリスチャンと呼ばれるようになり、教会と呼ばれるものができました。そして、現代に至るまでの二千年の歴史の中で大切にしてきた事がいくつかあります。 20年以上前のことですが、「健康な教会へのかぎ」と日本語に訳されているパーパス・ドリヴン・チャーチと言われるムーヴメントがおこり、その中で、礼拝、交わり、教育、奉仕、伝道が教会の目的であると言われていました。この中でも特に福音的と呼ばれるプロテスタント教会においては、伝道に力を入れてきました。 そこには一つの大きな理由があります。それはカトリック教会やルーテル教会などはそれぞれの地域や国において国教になっていますが、それ以外の教会は自由教会と呼ばれ、国からの援助を受けていないのです。ですから、自分たちで勢力を拡大しなければなりませんでした。それによって伝道活動が盛んになりました。 伝道というとチョッと堅苦しい感じがしますが、私はそんなに堅苦しいものでもなければ、肩肘張ってしなければならないものだとも考えていません。どこかにおいしいパン屋さんがあったとしたら、誰かにその事を伝えたくなりませんか。自分で独り占めして、誰にも教えたくないと思う人もいるかもしれませんが、私にとって伝道というのは、自分が聖書に書かれているイエスに出会って、本当に素敵な方だなと感じたから、それを他の人にも知って欲しいという感覚の出来事なのです。 でも、クリスチャンになると、すべてがハッピーになるのかというと、そうではありません。聖書はそのように語っていないのです。神を信じても、良い事ばかりではなく、苦しみや辛い事もあるのが現実です。神の前に捧げる祈りさえ、自分の思い通りにはならないという事をいつも心得ておかなければならないのです。 さらにイエスの語られた福音は因果応報という考え方を否定しています。ですから、善い行いをしていても、それが神の計画に適っているとは言い切れないのです。もちろん、だからと言って悪い事をしても良いと言っている訳ではありません。善行と言われる行いを重ねる事によって神の祝福を得るという考え方を否定しているのです。 【執り成しの祈り】 さて、今日のテーマは執り成しという事です。今日の聖書でアブラハムは「執り成しの祈り」をしているのですが、執り成しとはどういう事でしょうか。これは、自分の事ではなく、他人のために祈るという行為をさしています。 私自身そうなのですが、多くの人は「祈る」という時、自分の願い事を神や仏の前に並べ立てるのではないかと思います。それが良いとか悪いという事ではなく、それが正常な人間としての行動なのです。 自分のために祈るというのは、何となく利己主義や自分本位で良くない事、わがままと受け止められそうですが、自分を愛せない人には、他の人やものを愛する事はできないのです。これがスタート地点で、ここから成長していくにつれて、家族や友人、地域社会や世界へと視野が広げられていって、祈りの幅が出てくるのです。 そのように祈りの幅が広がったとしても、イエスが言われるように、自分の家族や仲良くしている人のために祈るという事は、罪人でもしているのですから、特別なことではありません。さらに一歩踏み出して、好きになれない人や面倒くさい人のためにも祈れるようになったとするなら、とても不思議なことだと思うのです。そして、その到達点の一つと言えるものが「執り成しの祈り」と呼ばれるものなのです。 一般的に考えるならば、自分の事ではなく他人の事を真剣に、まるで自分の事のように祈るという行為は、とても善い事です。だから、その祈りは聴かれて当然と思いがちです。「神様、私はこんな善い事をしているのだから答えてよ」と思ってもおかしくはありません。 しかし、だからと言って、その祈りがすべて答えられるとは限らないのです。私たちは福音という事とヒューマニズムを混同してはいけないのです。ヒューマニズムから出てくる発想は、パッと見は素晴らしいものに見えます。しかし、人間の考える善いことというものには限界があり、ある時には一方には良くても、他方には不利益になるという事もあるのです。ですから、私たちは信仰的に神の計画を先行させるように意識を変えなければならないのです。 今日の聖書では、アブラハムはソドムの町が滅ぼされないように祈りましたが、結果は滅ぼされてしまいました。アブラハムの執り成しの祈りは聴かれなかったのでしょうか。 【ソドムの罪】 そもそも、ソドムの町の罪とはいったい何だったのでしょうか。昔から言われていることは、ソドムの町は淫乱な、同性愛の町と言われています。そのような偏った見方が一般的にも広がってしまい、性的に荒廃した様子を「ソドムのようだ」と言われるようになってしまったようです。 しかし、旧約聖書はそのようには語っていません。イザヤ1章10~17節を見るとソドムとゴモラに対する主の裁きの言葉が語られていますが、そこで語られているのは形式的に献げものを捧げたとしても主は喜ばない、そこでの祈りも聞かない、集会すること自体、耐えられないとまで語っているのです。そして、最後には「善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」という言葉で締めくくられているのです。 また、エゼキエル16章49節をみるなら「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮していながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった」とあるのです。ここで説明されているソドムの罪とは、道徳的な退廃ではなく、礼拝の空洞化と社会正義の放棄がソドムの罪であると預言者たちは指摘しているのです。 このような主張をすると必ずペトロの手紙二2章7節やユダの手紙7節を引き合いに出して「みだらな行いや不自然な肉の欲」によってソドムは滅んだと反論されますが、旧約聖書の解説を新約聖書に見つけようとする場合、そこにはすでに解釈が入っているという事を忘れてはいけないのです。 イエスはマタイ10章で弟子たちを伝道に遣わす時、彼らを受け入れない町、つまりは旅人をもてなさない町に対する裁きは、ソドム、ゴモラよりも厳しいと言われているのです。 時々、教会は社会問題に関わるべきではないと言われる事があります。しかし、もし社会正義に目を閉ざすならソドムの罪を犯すことになるのです。そして、この社会正義とは構造的に虐げられる者、弱者から目を背けることなのです。 【ソドムの運命】 さて、話を戻して、アブラハムの執り成しの祈りは聞かれなかったのかという問いかけに戻りたいと思うのですが、答えを考える前に、アブラハムの祈りは純粋に執り成しの祈りだったのかという事も考える必要があると思います。もしかするとアブラハムの祈りは、自分の親族であるロトのためだけで、ソドムの町に対する思いはなかったのかも知れません。 もし、あったとしたなら、50人の正しい者がいれば、45人の正しい者がいれば、という問いかけを6回続け、10人にまで値切った後、さらに7回目として5人とか1人と言うことも出来たはずです。しかし、そこまでは言い切る事ができなかったのです。 そこには私たちがアブラハムを美化して捉えようとする考えが隠れているのではないでしょうか。ロトの家族の事しか考えなかったとしても、それは悪いことではありません。ソドムに対する思いも、執り成しの仕方も、中途半端なアブラハムがここにいるのです。でも、これが現実の人間の姿なのです。 ソドムの町は結果的には硫黄の火に包まれて滅びてしまいました。しかし、ロトと娘は助かりました。ここに厳しい現実としての神の計画があったのです。人間の善い行いによって、神を従わせようとするならば、それは罪に変ってしまうのです。 そこにあるのは人間の正義と神の正義との違いなのです。人間がその正義を通そうとしても、最終的な責任をとることはできません。しかし、神はその正義を通すために、最後まで責任を取られるのです。 その一番大きな例がイエスの十字架なのです。神はその愛とあわれみによって、滅ぶしかない罪人を赦そうとされました。しかし、正義を貫きつつ、赦すためには、犠牲が必要となるのです。その犠牲とは自分自身の命しかありません。つまり、ひとり子であるイエスの命を全人類の贖いとする事しかなかったのです。この神の深い葛藤が、私のためだという事を知った時、私たちはどのように答えていけばよいのでしょうか。 祈 り 讃 美 新生526 主よ わが主よ 献 金 頌 栄 新生672 ものみなたたえよ(B) 祝 祷 後 奏
2023年10月8日 主日礼拝
投稿日 : 2023年10月8日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー