前 奏
招 詞   詩編5編4節
讃 美   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
讃 美   新生240 救いの主はハレルヤ
主の祈り
転入会の証し 
讃 美   新生242 主は生きたもう
聖歌隊賛美 「救い主 王は」
聖 書   マルコによる福音書16章1~8節
                        (新共同訳聖書 新約P97)
宣 教   「女たちは見た」    宣教者:富田愛世牧師
【逆転の朝】
 イースターおめでとうございます。イースターの朝に、こうして皆さまと共に礼拝をお献げすることができ感謝いたします。コロナの4年間を通して、当たり前だったことが、本当は当たり前ではなく、すべて神の恵みの内にあるという事を経験することが出来たと思っています。
 今朝、与えられた聖書を読んでも、すべてが神の計画と恵みによって進められているという事を感じるのではないかと思います。
 私たちの教会では聖書教育にある「毎日のみことば」という聖書箇所を日課として読んでいますが、先週は受難週という事もあり、イエスが十字架に架かる前後の箇所を中心に聖書を読んできました。
 さて、今日のタイトルは「女たちは見た」としましたが、これは「家政婦は見た」というドラマのタイトルをもじりました。皆さんの中にも、そのドラマを見た方がいると思います。市原悦子というベテラン俳優が家政婦の役を演じて、様々な事件を解決に導くという内容でした。
 私は、このドラマの背景には「価値観の逆転」という発想があったように感じるのです。日本という男性優位社会の中で、事件を解決するのは男性の刑事というのが当たり前でしたが、男性刑事たちが見過ごしたり、見落としたりしていた真実を家政婦は見ていたのです。
 聖書を読むとイエスの十字架の場面でも同じようなことが起こっていたのではないかと思わされます。イエスが十字架で死なれた時、そこに最後までいたのは女性たちでした。そして、イエスの復活を最初に知らされたのも女性たちでした。
 私たちの常識から考えると、当然ペテロやヤコブといった男性の弟子たちがその場にいるべきと思われますが、現実は違いました。
 しかし、そこにこそ十字架と復活の意味があるのです。十字架の場面でも、復活の朝も、価値観が逆転することによって神の栄光が表されたのです。
【心配からの解放】
 イエスが十字架にかかり、殺されたのは安息日の直前でした。祭司たちは一刻も早くイエスを亡き者にしたいと考えていたので、急いで形だけの裁判を開き、無理やりイエスを十字架刑に処し、殺してしまいました。
 急いだ理由は二つあったと思うのです。一つは、とにかく早く殺したいという思いがありました。もう一つは安息日が迫っていたという事です。律法によれば、安息日には一切の仕事をしてはならないということでした。ですから金曜日の日没までにイエスを殺さなければならなかったのです。
 ただ本来、安息日というのは仕事をしてはいけない日ではなく、神がその創造の業を終え、七日目に休まれたことを記念して、神を礼拝するために、他の事をしないという事だったはずです。そのような日を前に、イエスを殺そうとする祭司たち、ユダヤの指導者たちは、どのような思いで安息日を迎えたのでしょうか。
 また、イエスの周りの人々に目を向けるなら、イエスの弟子たちは、この安息日をどのように過ごしていたのでしょうか。
 きっと、安息とは程遠い悲しみ、心配、そして絶望感を味わっていたはずです。そして、自分たちもイエスの仲間だと見なされることによって、捕らえられてしまうのではないかという不安もあったと思うのです。
 ヨハネによる福音書20章19節を見ると「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」と書かれています。とにかく男性の弟子たちは、恐れや不安に捉われ、身を隠していたのです。
 それに対して女性の弟子たちはどうだったのでしょうか。マリアたちは早く安息日が過ぎ去り、日曜日になるのを待っていました。それは、きちんとした埋葬をしたかったからなのです。とにかく安息日が迫っていたので、簡易的な埋葬しかできなかったようなのです。
 夜が明けるとすぐに墓に急ぎましたが、全く不安な気持ちがなかったわけではありません。心の中には「誰があの石をころがしてくれるか」という心配がありました。とても現実的な心配です。しかし、墓に着くとすでに石はころがしてありました。
【律法の安息から真の安息へ】
 イエスの十字架から復活までの時間、男性の弟子たちと女性の弟子たちは、非常に興味深い形で対照的に描かれているのです。
 裁判の場面までは、男性の弟子たちもイエスの側にいたようです。マルコによる福音書14章66節を見ると、ペトロは大祭司の屋敷の中庭までついてきています。ただ、そこで「お前もイエスの仲間ではないか」と問われると、それを否定して逃げてしまいます。そして、十字架の場面ではどこに行ったのか分からなくなっています。
 女性の弟子たちは裁判の場面では、どこにいたのか分かりませんが、十字架の場面では、遠くから十字架を見守っていたと記録されています。ただ、ヨハネによる福音書では、話し声が聞こえるくらい、近くにいたようです。そして、イエスの愛された弟子と呼ばれている男性の弟子も同じ所にいたようです。
 そして、イエスが殺され、墓に埋葬された時には男性の弟子たちの姿は見当たりませんが女性の弟子たちは埋葬の手伝いをしていたかもしれません。
 そして、安息日になるわけです。人々は安息日に神を礼拝し、肉体と魂の安息を得ていました。しかし、男性の弟子たちにとってはこの日は神を礼拝する事もできず、肉体と魂を休めることもできませんでした。不安と恐れに捉われていたのです。
 ところが女性の弟子たちは安息日が終わるのを待ち、まだ夜が明けるか明けないかのうちに墓に急ぎました。そこで彼女たちを待っていたのは、空の墓とイエスが復活されたという知らせでした。
 女性の弟子たちは安息日が早く過ぎて、日曜日になるのを待っていたと言いましたが、どのような気持ちで待っていたのでしょうか。聖書には何も書かれていないので分かりませんが、男性の弟子たちと同じように不安な気持ちや寂しさ、悲しさを抱えていたはずです。しかし、律法の規定によって何もできませんでした。そして、安息日が明けた朝、彼女たちがからの墓で経験したことは、律法的な安息ではなく、魂に対する真の安息が与えられたのです。
【見えるものから見えないものへ】
 安息日が明け、週の初めの日の朝、まだ夜が明けるか明けないかという早朝、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに香油を塗り、きちんとした形で埋葬するため墓に行きました。
 そして、すでに入口の開いている墓に到着し、中に入るのです。そこで彼女たちを待っていたのは白い衣を着た若者でした。それは神の使いを現わしています。
 墓の中では、神の使いが「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」と語りかけました。
 マリアたちが目にした空の墓と白い衣を着た若者は「イエスは復活した」と語りましたが、マリアたちはすぐには信じられなかったと思います。なぜなら、見ていないからです。空の墓は見えているので、そこにイエスがいないことを理解したでしょう。また、若者がいるのも見ているので理解したでしょう。しかし、そこにいない、復活したと言われるイエスの事は理解できなかったと思います。
 私たちは目に見えるものを理解してきましたが、ここでは目に見えるものではなく、目に見えない「ここにはいない」復活されたイエスを信じなさいと、見えないものを信じるという信仰が要求されるのです。
 マルコによる福音書では、この後、マリアたちは、誰にも何も言わなかった「恐ろしかったからである」と記録されています。しかし、マタイによる福音書には「恐れながらも、大いに喜んで、他の弟子たちに伝えた」と記録されています。どちらが正しいという事ではなく、どちらの思いも真実の思いだと思うのです。
 まだまだ、心の整理がつかなかったのだと思うのです。見えないものを信じるという事は、それくらい難しいのかもしれません。しかし、聖書は私たちが自分の力によって信じるのではなく、聖霊の力によって信じられるように促されるのだと語ります。言い方を変えるなら、神に委ねるという事かも知れません。
 イエスが神にすべてを委ねたように、私たちも神に委ねるなら、そこには真実の平安があるのです。

祈 り
讃 美   新生241 この日主イエスは復活された
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏