聖書 Ⅰペトロ 1:3~5 宣教題 キリストにある希望 説教者 中田義直
毎月、第一日曜日の説教では私たちの信仰の基本となるテーマを取り上げて、み言葉を聞いてまいりました。今までに、「主の祈り」「十戒」「使徒信条」、そして、「市川大野キリスト教会信仰告白」から一節づつ取り上げてきましたが、今回で市川大野教会の信仰告白の最後の節となりました。2014年の12月の第一日曜日からですので二年と少しの期間をかけて私たちの教会の信仰告白の言葉を見てまいりました。
この教会の信仰告白は「それゆえ、私たちはいかなるときにも、イエス・キリストにあって希望をもって生きていくのである」という言葉で結ばれています。信仰告白は、神様を信じる信仰を表明するものですから、それは私たちの意志によるものです。特に私たちバプテスト教会は、自らの意志による「信仰告白」を大切にしてきました。そして、その信仰告白で「私たちはいかなる時にも希望をもって生きていくのである」と、私たちは告白しているのです。この時、何よりも私たちが忘れてならないこと、それは「イエス・キリストにあって」という言葉です。なぜなら、私たちがいかなる時にも希望を持ち続けることができるのは、イエス・キリストの導きと恵みがあるからです。
イエス様の弟子ペトロは「 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」と記しています。そして続けて「 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」と記すのです。私はこのペトロの言葉を読むと、何か、目頭が熱くなるような思いで心が一杯になってしまいます。「神の力により、信仰により守られています」と記されている、この信仰はペトロの信仰ではなく、イエス・キリストの信仰、イエス・キリストの祈りではないでしょうか。
ルカ福音書の22章、最後の晩餐の場面にイエス様とペトロのこのようなやり取りが記されています。「22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
ペトロは、イエス様のあなたは躓くだろう、しかし「信仰がなくならにように祈った」というイエス様の言葉を拒んでいます。自分はそんなに弱くない、自分の意志で、たとえ牢につながれようとも命の危機にさらされ命を失うようなことになっても、イエス様についていくと彼はきっぱりと宣言しています。しかし、ペトロはイエス様の言葉通り、イエス様を三度知らないと言ってイエス様との関係を否定し、イエス様への信仰を投げ出してしまったのです。そのペトロが、今、教会の指導者として筆をとり、教会への励ましと教えの手紙を書いているのです。一度投げ出してしまった信仰、しかし、そのペトロの信仰がなくならないようにとイエス様が父なる神に祈ってくださったのです。このイエス様の信仰、イエス様の祈りによって私の「信仰」は守られたのだ、とペトロは記しているのです。
多くの困難を乗り越えてイエス様の福音を告げ広めたパウロもこう記しています。「8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」どう祈ってよいかさえ分からなくなってしまうような状況に陥っても、霊、神様の霊が私たちの心に寄り添い、ともにうめいて執成してくださるというのです。私たちに寄り添い、うめきをもって執成してくださる聖霊が共にいてくださるから、私たちの弱さを知っておられるイエス様が私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださるから、私たちは「それゆえ、私たちはいかなるときにも、イエス・キリストにあって希望をもって生きていくのである」と告白することができるのです。最後にローマの信徒への手紙5章1節から11節をお読みいたします。
「5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
-祈り-
主なる神様、あなたに呼び集められ、共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
主よ、あなたは私たちの弱さをご存知です。私たちが自分自身の意志であなたに従って歩み通すことのできない時も、あなた私たちの信仰がなくならないように祈り、守っていてくださいます。悲しみの時には、共にうめいてくださり、執成してくださいます。だから私たちは、どのような時でも、キリストにあって希望を持ち続けることができます。
主よ、御国に至るまで希望をもってこの地上にあっていき、歩むことができまうよう、どうかこれからも私たちを聖霊により助け導いてください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書ー
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。