前 奏
招 詞   創世記1章2節
讃 美   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
讃 美   新生 27 たたえよあがない主イエス
主の祈り
讃 美   新生363 キリスト教会の主よ
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章19~26節
                         (新共同訳聖書 新約P362)
宣 教   「生きることはキリスト」   宣教者:富田愛世牧師
【というのは・・・】
 今日の箇所は前からの続きとして「というのは」という言葉から始まっているので、何が「ということ」なのかを確認してからお話を進めていかないといけないと思います。そうしなければ、何を話しているのか分からなくなったり、誤解してしまったりする可能性があるので、共通の理解をしておきたいと思います。
 それは12節からの部分に書かれていることで、不純な動機からキリストを宣べ伝える人もいれば、純粋な動機によってキリストを宣べ伝えている人もいる。いずれにしてもキリストが宣べ伝えられていることが素晴らしい事柄であって、パウロがそれを喜んでいるということを受けています。
 つまり、パウロにとって伝道の働きが前進しているということが、何よりの喜びだというのです。
クリスチャンにとって大切な使命がいくつかありますが、バプテスト教会のような自由教会では、イエスの語られた大宣教命令というものがあります。マタイ28章19節以下には「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と書かれています。
 伝道することはイエスの命令だと受け止めているのです。そして、伝道するということは神に喜ばれる行為だと信じているのです。そういう流れの中で信仰生活をおくっているので、伝道することは喜ばしいことかもしれませんが、必ずしもその人にとって「喜び」になるとは限りません。
 残念ですが、強いられたり、ノルマのようになったりすることもあるようです。2、3人が組になって、家々を回り「聖書を学びませんか」という人が来たことないですか?ほとんどの方が経験していると思います。キリスト教の異端グループですが、多くのクリスチャンは、彼らのことを「伝道熱心だ」と言いますが、それは大きな誤解、間違いなのです。
 熱心というのは心を熱くして、大切な事を伝える行為です。しかし、彼らは伝道しなければ裁かれるという強迫観念に囚われてしているのです。完全なマインドコントロールの中で行われているので、それにさえ気づかないでいるのです。
 他にもいくつかのカルト的宗教では同じようなことが行われています。ちなみに「カルト」宗教というものの定義は「人を恐怖によってコントロールする」ことです。時々オカルトとカルトを混同してしまう人がいますが、オカルトとは全く違うものです。
 そう考えるとキリスト教会もカルト的な要素を持っているので注意しなければならないと思っています。神の裁きや地獄思想を前面に出し、強調してしまったり、伝道することや奉仕することを無自覚であったとしても、強要してしまうような雰囲気を作るなら、カルト的な教会になる危険性が出てくるのでお互いに注意しなければならないと思っています。
【良き知らせ】
 少し話がそれてしまいましたが、パウロは強いられるどころか喜んで伝道しました。ただここでも注意しなければならないのは、聖書に登場する信仰的な人物がいると、自分をそれに投影してしまうことがあり、この場合はパウロの伝道方法こそがすべてであるかのように錯覚してしまうことです。
 パウロは自分に与えられたもっともよい方法で、伝道しましたが、これが唯一の伝道方法ではありません。10人いれば10通りの方法があり、お互いに切磋琢磨することは大いにすべきですが、非難したり、否定したりすることには注意しなければなりません。
 パウロにとってイエスに出会い、福音を聞くという出来事は、人生を変える出来事でした。はじめパウロは熱心なユダヤ教徒で、その熱心さはユダヤ教からすれば「異端」のように見えたイエスのグループを迫害するほどでした。しかし、ダマスコという町まで行く途中で、自分が迫害しているイエスが現れパウロに直接語りかけ、その出来事によってパウロの人生は180度、変わってしまったのです。
 180度、変わったパウロの人生は、今まで何かによって縛られていた心が解放され、完全な自由を手に入れたのです。そして、何かをしなければ、と強迫観念に囚われビクビクしていた心が、救われた喜びにあふれたのです。だからパウロは喜んで伝道するようになりました。
 しかし、先ほど言ったようにパウロに自分を投影してはいけないと思うのです。そうするとパウロのように劇的な回心を経験しなければならないかのように思ってしまいます。私も高校生の頃、同年代の友人の証しを聞き、自分には劇的な回心の経験がないからダメなんだと思ったことがありました。劇的な回心を経験していない人は喜びが少ないのでしょうか。喜んで伝道できないのでしょうか。そんなことはあるはずもありません。
 極端な言い方をすれば、伝道する気になれないなら、しなくても大丈夫だと私は思います。強いられたり、ノルマのように伝道することがあるとするなら、そこで伝えられることは、いったい何なのでしょうか。自分の中に喜びがないのに「イエスさまを信じると心に喜びがあふれますよ」なんて嘘をついても、何の意味もありません。
 それでも、神の御心、計画の中で伝道すべき時には、すべき場所へと運ばれてしまうのです。そして、語る言葉も行動も用意されてしまうのです。これに関して、私の経験を証ししたいと思うのですが、話し出すときっと止まらなくなるので今日はやめておきます。
 とにかく、一つ確信を持って言えることは、伝道とは神の業だということです。私たちが知恵を絞って、また、熱い情熱をもって伝道したとしても、もし、神の時でなかったなら結果を見ることはできません。反対に何の用意もないということはないと思いますが、日々御言葉を心の中に蓄え、人との関係の中にイエスがおられることを覚えているなら、予期しないところで伝道するチャンスがやってきて、そして、自然な形で結果を見せられてしまうのです。この人がイエスを信じるはずがないと思い込んでいる人が信じてしまうのです。
【パウロの葛藤】
 そのような経験をすると伝道が喜びだと実感できるのです。パウロはそういう経験によって、伝えることの大切さを語ると同時に、そこで語られる内容、そして、その結果を自分の身にも求めているのです。
 語られる内容とは福音です。福音を信じる時、その信仰によって地上での生涯だけが大切なのではなく、地上での生涯を終えた後についても希望があるという真理に気付かされるのです。
 それをパウロは「死ぬことは利益なのです」と表現しています。また、23節では「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と語っています。
 信仰による希望は地上では経験することの出来ない、祝福に満ちたものだとパウロは確信しているのです。しかし、私は正直に言うなら、まだ、このようなパウロの心境には達していないと思います。死ぬのが怖いということではありませんが、今の段階で天国への希望だけを語るなら、現実逃避のように思えてしまうのです。私にはパウロとは違う意味で葛藤があるのかなと思っています。
 しかし、パウロも正直に精神的な部分で矛盾を感じているということを告白しているのです。生きて働くことによって得られる喜びや充実感、そして、死んで主イエスの御許に引き上げられることによる喜びと平安。どちらも捨てがたく「今」の自分に必要なのかと。
【生きること】
 そこでパウロが出している一つの結論は「生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」ということです。
 生きることはキリスト、つまり、パウロの生き方がキリストを表しているというのです。こんなことを言うと、自信過剰な人か、それとも脳天気な人か、と思われるかもしれません。きっと皆さんが自分に当てはめて読むなら「そんな畏れ多いことを」などと思ってしまいそうです。しかし、私はもっと自信を持っていいと思うのです。
 日本のクリスチャンは、きっと世界で一番まじめで謙虚なクリスチャンだと思うのです。あれでもクリスチャンかと後ろ指さされるような人は少ないと思います。
 また、福音書から思い描くイエス像が偏っているのかもしれません。イエスはただの人として生まれ、私たちと同じように生活されたのです。皆さんが思い描く「こんな私」と一緒にいてくださるのがイエスなのです。だからこそ、生きることはキリストなのです。
 そして、それだけでなく、死ぬことは利益、つまり、ここには死を恐れない、不安に打ち勝って生きる力が語られているのです。先ほども言ったように、死で終わりなのではありません。死の先にある希望が聖書には語られているのです。
 何があるのか分からないという不安からくる、死に対する怯えを持った生き方ではなく、死を乗り越える、つまり、死が終着地点ではなく、中間地点だとする生き方があるのです。

祈 り
讃 美   新生485 主よ われをばとらえたまえ
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏
報 告