前 奏
招 詞   マタイによる福音書1章23節
讃 美   新生  8 主の呼びかけに
開会の祈り
讃 美   新生151 わが心は あまつ神を
主の祈り
讃 美   新生184 マリアより生まれたもう
聖 書   イザヤ書7章10~14節
                     (新共同訳聖書 旧約P1071)
宣 教   「共におられる神」    宣教者:富田愛世牧師
【預言の背景】
 先週まで創世記から「族長物語」を見てきましたが、今日からアドベントに入るので少しお休みして、聖書教育と同じ聖書を読んでいきたいと思います。今回はイザヤの預言が3回続き、クリスマス礼拝はヨハネによる福音書3章からとなっています。具体的な降誕物語の聖書箇所が選ばれていないので、少し違和感を持たれるかもしれませんが、その分、本質的な事柄に触れることが出来ると思いますので、期待してください。
 教会学校のクラスに出席されている方は11月からイザヤ書を読み始めているので、イザヤ書の背景などについて、ご理解されていると思いますが、クラスに出席されていない方もおられますので、背景からお話したいと思います。
 イザヤという預言者は、紀元前740年から700年頃まで活動していたと考えられています。そして、そのころ、今のイラクがある地域にアッシリアという強大な国が興りました。アッシリアは近隣の国々を侵略し、勢力範囲を広げていました。
 そして、その勢力がパレスチナ地方にまで及び、南ユダ王国も北イスラエル王国もアッシリアの侵略に対して恐れを抱いていたのです。そのような政治的背景の中で、北イスラエル王国は隣国であるアラムと同盟を結び、アッシリアに対抗するようになりました。一般的にはシリア・エフライム同盟と呼ばれています。
 北イスラエル王国の王、ペカは南ユダ王国にも、この同盟に加わるように要求したということが推測されています。しかし、南ユダ王国のアハズはそれを拒否したようです。その理由は分かりませんが、それによって北イスラエルとアラムの同盟は南ユダ王国を攻撃するようになったのです。たぶん、自分たちの同盟に従わせたかったのだろうと思います。
【アハズの恐れ】
 南ユダ王国のアハズという王については、歴代誌下28章に記録されています。1節を見ると「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった」と書かれています。
 さらに続けて読むと2節には「彼はイスラエルの王たちの道を歩み、その上バアルの神々のために像を鋳て造った。」3節「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子らに火の中を通らせた。」と記録されています。
 目に見える、人間の手によって作られた神や、何かをやっているという一時的な達成感を得ることが出来るような習慣を取り入れるという事は、心に平安が無いとか、何かの恐れに取りつかれているという証拠なのです。
 私たちの周りを見回しても、そのことは証明できると思うのです。経済的に不安定な時期になると、初詣の人出が増えると言われています。人は心に恐れや不安があると何かに頼りたくなるのです。そのような行動は当然の事だと思います。ただ、その時に頼るべきものが、どうしても目の前にあるもの、手っ取り早く自己満足できるもの、何となく御利益がありそうなもの、みんなが頼っているもの、そんなものに頼ってしまう弱さを持っているのです。
 恐れや不安という思いが大きくなってきた時、人間は何かに頼ろうとしますが、それだけではなく、その行動という面においても、いくつかの特徴的な行動を起こすようです。
 その一つは「攻撃的になる」という事です。恐れや不安を隠すために、相手に対して攻撃するのです。しかし、そんなことをしても何の解決にもならないことを歴史が証明しています。
 そして、もう一つの行動パターンは頑なになるという事です。一つの事にこだわって、それが正解だと思い込んでしまうのです。私たちの心が、どんどん頑なになっていく時、私たちは正常な判断をすることが難しくなってくるのです。
 この時のアハズ王の心は、恐れと不安によって頑なになってしまったようです。心が狭くなり、何かを受け入れるという余裕がなくなってしまったのです。10節を見ると「主は更にアハズに向かって言われた」とあります。神の言葉が自分に語りかけているにも関わらず、その言葉を聞くことが出来なくなっていたのです。
【神の寛容さ】
 心が狭く、頑なになったアハズ王に対して、神の思いはどのようなものだったのでしょうか。とても興味深い言葉が。この後に続いているのです。それは11節にあるように「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」というものでした。
 信仰という面から見ていく時、しるしを求めずに、ただ信じることの方が信仰的な態度に感じるのではないかと思いますが、この時、神は「しるしを求めよ」と語るのです。なぜなのでしょうか。直接的にその意味は語られていません。しかし、この後の展開からいくつかの事が想像できます。
 また、アハズ王の答えを見るなら「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」とあります。アハズ王にとって「しるしを求める」という事は「主を試す」ことと同じで、そのようなことをしてはいけないと思っていたのかもしれません。
 ただ、歴代誌の記録を見ると、アハズ王は神を敬わず、神に従わない王だったようなので「主を試す」とか「しるしを求める」ことが信仰的に良くない行為だと思っていたとは限らないのかもしれません。もし、そうだとすれば、何であれ、神の言葉は信じないし、神からの問いかけにも答えないという態度の表れだったのかもしれません。
 いずれにしろ、神に対して不忠実な態度のアハズ王に対して、神は寛容さを示し「しるしを求めよ」と語られたのではないでしょうか。忠実な者には当然、応えてくださる神ですが、不忠実な者に対しても寛容な態度で接してくださるのが神の姿なのです。
 さらに「しるしを求めてはいけない」とか「主を試してはいけない」という事は、イエスの語られた言葉として、マタイによる福音書4章などに書かれているので、現代に生きる私たちは当然の事として受け止めています。しかし、イザヤの時代はどうだったのでしょうか。
 申命記6章16節に「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」とあります。申命記5章で十戒が語られた流れで、このように書かれているわけですから、イザヤの時代においても、現代と同じように、人々は「主を試してはいけない」と思っていたはずです。 
 しかし、神は不信仰な者に対して「しるしを与える」と語って下さるのです。神が自ら与えると言われるものを拒否するという事は許されないことなのです。
【インマヌエル】
 神を拒否するアハズに対して、イザヤは13節にあるように「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。」と語ります。
 アッシリアの脅威、そして、イスラエルとアラムの同盟が目前に迫ってきているにも関わらず、神からの救いの手を拒否し、何もできずにいるアハズの姿があります。そして、ユダの人々もただただ不安と恐れの中、何もできずにいたのではないでしょうか。
 アハズ王は、この後「敵の敵は味方だ」という思いでアッシリアに助けを求めました。それによって、その場しのぎは出来たのかもしれません。しかし、軍事力という暴力に頼る者は、同じ軍事力、暴力によって滅びてしまうのです。軍事力が直接、戦争に結び付かなかったとしても、抑止力だと言い訳をしたとしても、その結果が生むものは混乱と破壊しかないのです。
 そして、14節で語られるように「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる」のです。そのしるしとはどのようなものなのでしょうか。
 戦争のうわさや政治的混乱の中にあっても、人々の生活は続いているのです。14節の後半を見ると「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」と語られます。
 不安、恐れ、混乱の中にあって、あえて「インマヌエル」「神が共にいてくださる」と宣言されるのです。
 軍事力、政治力、経済力、様々な「力」が私たちを守ってくれると思っています。しかし、本当に私たちを守り、平安を与えてくれるのは、そのような「力」ではありません。力によって得られる、平和のような状態は、力によってねじ伏せられた別の力によって、また、壊されてしまいます。
 「神が共にいてくださる」という言葉を信じ、その言葉に信頼を置く時、私たちは力ではないものに価値を置くように導かれ、神との平和、そして、隣人との平和の中に入れられるのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生149 来れやインマヌエル(A)
主の晩餐  
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏