前 奏
招 詞   ルカによる福音書1章47節
讃 美   新生  8 主の呼びかけに
開会の祈り
讃 美   新生180 イエスがこころに
主の祈り
讃 美   新生194 まぶねの傍に
聖 書   イザヤ書25章1~9節
                   (新共同訳聖書 旧約P1097)
宣 教   「涙をぬぐう方」    宣教者:富田愛世牧師
【悲しみの涙】
 今日は「涙をぬぐう方」というタイトルを付けましたが、涙と言っても、様々な種類の涙があると思います。私は最近、歳のせいなのか、涙腺が緩くなって涙もろくなりました。映画やドラマを見て涙を流すことが多くなったのですが、そこで流れる涙というのは、何かに感動して流す涙だと思います。
 また、ドキュメンタリー番組などを見ている時には、何十年ぶりの感動の再会などという場面があると「良かったな」と思って、喜びの嬉し涙のような涙を流すわけです。さらにニュースなどを見ていると、パレスチナのガザでは、イスラエルの攻撃によって家が破壊されたり、家族を失ったりして嘆いている人々の姿を見ます。そして、悲しみがこみあげて来て、涙を流すわけです。
 先ほど読んでいただいたイザヤ書25章8節には「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい」と書かれています。ここで神がぬぐってくださる涙は、明らかに悲しみの涙なのだと思います。
 この悲しみの背景は、アッシリアの脅威やイスラエル・アラム同盟からの攻撃によって町が破壊され、家族や親しい者たちが傷つき、殺されてしまったという現実があるわけです。
 このような悲しい現実の中で、人々はなす術を知らず、ただ悲しみの涙を流すしかなかったのです。しかし、イザヤの語る言葉は、そのような現実、見える形での悲しみだけを語ろうとしているのではありません。その背景には神との関係を損なってしまった人々の姿が隠されているのです。
 人が悲しみに支配されている時、そこには神の存在から目を背けている現実があるのです。意識的に背けているわけではなかったとしても、神を見失っているという心の状態があるのです。
【神の計画の成就】
 しかし、この預言のテーマは悲しみという事ではありません。新共同訳聖書の小見出しを見ると「神の驚くべき御業」となっているように、神の計画は必ず実現するという事がテーマとなっているのです。
 1節を見ると「主よ、あなたはわたしの神 わたしはあなたをあがめ 御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された 遠い昔からのゆるぎない真実をもって」と書かれています。ここで大切なことは、神の計画は実現するという事なのです。
 2節を見ると「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし 異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」と書かれています。つまり、人の手によって建てられた町、都は必ず、いつかは滅びてしまうというのです。
 現実を見るとエルサレムという町、都はダビデ、ソロモンによって造られた都です。諸外国から使節団が見学に来るほどの素晴らし神殿、王宮が建てられ、かつてないほどの繁栄を見たわけです。
 しかし、それが異邦人、つまり、他の国によって破壊され、占領されるようになると語るのです。そして、現代にいたるまで、エルサレムは様々な人々によって占領され続けているのです。もちろん、平和な時期も長い間ありましたが、人間の持つ様々な欲望や政治的な駆け引きによって、争いの絶えない「聖地」となっているのです。
 そして、この預言の中では「永久に都が建て直されることはないであろう。」と締めくくられています。これは象徴的な表現として書かれていると思いますが、そもそも「聖地」などという考え方は、人間が勝手に作り出したものにすぎないのです。
 聖書の中にエルサレムを「聖地」と定め、そこを守りなさいなどと書かれているわけではありません。神の都として描かれていますが、その場所が特別だという事ではなく、一つの象徴として描かれているわけです。ヨハネによる福音書4章21節でイエスはサマリヤ人の女の人に向かって「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と語っています。
 新しい契約に生きる、私たちクリスチャンにとって、神と出会う場所、礼拝の場所はエルサレムではなく、今、置かれているそれぞれの場所が「聖地」なのです。 
【神の守り】
 続けて4節を見ると「まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 豪雨を逃れる避け所 暑さを避ける陰となられる」と書かれています。この言葉を読んだ時、私はドキッとしました。今年の異常気象を思う時、ここに書かれている通りのことが起こっているような気がしました。
 世界のいたるところで猛暑を越えた「酷暑」が観測され、100年に一度と言われるような洪水もいたるところで起き、普段は雨すら降らないような砂漠で洪水が起こっているわけです。酷暑や乾燥の影響で山火事も例年以上に起こっています。
 「豪雨を逃れる避け所」を求めている人は世界中に何十万人といます。「暑さを避ける陰」を求めている人も世界中に何万人といるわけです。「暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨」と表現されています。一体だれが「暴虐な者」なのでしょうか。あの人とか、この人ではなく、もしかすると人類そのものが「暴虐な者」になっているのではないでしょうか。
 これらの異常気象と呼ばれるものは、現実の中で起こっていることですが、そんな自然を支配し、その中で私たちを守って下さっていたのが神なのではないでしょうか。ところが、私たちは、そのような神の守りという事を、もしかすると忘れていたのかもしれません。忘れていたことにすら気付かず、当たり前と思い込んでいたのかもしれません。
 4年前にはコロナパンデミックと呼ばれる感染症が世界中に蔓延しました。その時、ある人々は、環境破壊の結果として、過去に例を見ない感染症が顔を出したのではないかと警鐘を鳴らしました。
 その前から異常気象と呼ばれる自然現象が頻繁に起こるようになっていました。これらの事柄は、起こってしまい、私たちの生活に支障をきたすようになったので、慌てていますが、もしかすると「自然」の中では、特別なことではなかったのかもしれません。
 今まで、そのようなことから守られていたから、気付けなかったのではないでしょうか。平穏な暮らしは、決して当たり前のことではないのです。そのことに私たちは気付かなければならないのではないでしょうか。
【神の祝宴】
 神の計画とは2節、3節に書かれているように、「力」による支配を強めようとする者たちから、その「力」を奪い取り、無力な者にし、弱い者、苦難に遭う貧しい者を守ることなのではないでしょうか。
 そして、6節を読むと「万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を提供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」と書かれています。
 「力」に頼っていた者たちが無力にされ、弱い者、苦難に遭う貧しい者たちが、神の祝宴に招かれるのです。神は、そのようにすべての民を招いてくださると宣言されるのです。
 7節には「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし」とあります。「布」とは何を意味するのでしょうか。明確にこれだという答えは分かりません。しかし、アダムとエバが罪を犯し、裸でいることに気付いた時、神は二人に衣を与えられました。その時は、革の衣でしたが、文明が発達する中で革の衣から布の衣に代わっていきました。そう考えると、神との隔てを作っているのが衣なのかもしれません。
 神が、至れり尽くせり、すべての必要を満たしてくれていたことを忘れ、神の存在すら忘れていることに気付かないような愚かな私たちに対して、8節には「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主がかたられたことである。」
 クリスマスを迎えるにあたって、これらの預言の言葉が、キリスト・イエスによって実現したという事を、もう一度、ひとり一人の心に留めていくことが出来るなら、それこそが神を礼拝する者にふさわしい姿勢なのではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生152 あがめます主を
献 金
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏