前 奏 招 詞 ヨハネによる福音書6章31~33節 讃 美 新生 26 ほめたたえよ造り主を 開会の祈り 讃 美 新生 16 み栄えあれ 愛の神 主の祈り 讃 美 新生207 緑も深き 聖 書 出エジプト記16章1~5節 (新共同訳聖書 旧約P119) 宣 教 「ちょうど良い」 宣教者:富田愛世牧師 【民の不平】 前回はエジプト軍の追っ手から、神の大いなる御業によって、イスラエルの民が救われたという箇所を読みました。葦の海を渡り、エジプト軍の追っ手からも守られたことに感謝し、イスラエルの民は喜びながら道を進んでいたはずです。しかし、続きを読むと、またまた民の間から不平が漏れてきたようです。 今日は読んでいませんが、15章24節を見ると「民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った」と書かれています。エジプト兵から守られ、葦の海を渡ることが出来て、神に感謝しながら道を進んでいたのに、のどが渇き、水がなくなるとすぐに不平が噴き出しているのです。 そして、今日読んだ16章では空腹のために不平が噴き出したようです。初めのうちは蓄えていた食糧があったようですが、その食料が底をついた時、イスラエルの民の目は、神を見上げることが出来なくなり、目の前にある不平、不満しか見えなくなったようです。 このようなイスラエルの民の姿を、私たちは第三者的に読んでいると思います。そして「しょうがない人たちだな」と思うことがあると思います。しかし、そのような時、少し自分を振り返ってみなければならないような気がします。 私たちは不平や不満がある時、それを誰にぶつけているでしょうか。事柄の本質をしっかりと見て、根本から解決できるように課題を整理しなければならないのですが、どうしても不平や不満の矛先は、目の前にいる誰かであったり、モンクを言いやすい誰かに言ってしまうのではないでしょうか。 ここで民は、モーセに不平を述べても意味がないのです。なぜなら、これは神の計画なのですから、神の前に叫び、求めなければならなかったのです。そして、不平を言うことが良いか、悪いかではなく、神はそれに応えてくださるという、神への信頼を持つことが大切なことなのです。 【神の恵み】 神からの恵みを受け、神に導かれ、歩んでいるイスラエルの民ですが、恵みを受けても、助けられても、のど元過ぎれば熱さ忘れるような、薄情な姿を聖書は記録しています。 神はなぜこのように愚かなイスラエルの民の不平に答えられたのでしょうか。そこには神の大きな計画があるのです。そして、不平ばかり言っているようですが、不平を言う事が出来るという事は、不平を言う相手に期待を持っているという事でもあるのです。 私たちの人間関係でも同じことが言えると思うのです。相手の人に直してほしい点があったとして、その相手が自分の注意を受け入れ、直してくれるだろうと期待出来れば、注意すると思いますが、自分の注意を受け入れず、直すこともしないだろうと期待しない相手ならば、何も言わず黙っていると思うのです。 イスラエルの民はモーセに不平を言いますが、根本的な解決をしてくださるのは神だと思っていたのではないでしょうか。そして、この不平を言うという事は、出エジプトの根本的な出発点である、民の叫びに通じるのではないでしょうか。 イスラエルの民はモーセに向かって不平をいうわけですが、それは神に向かっての叫びだったのです。だから、神はその叫びに答えられたのではないでしょうか。 さらに、神はご自分の民を愛されています。最初の叫びは、イスラエルを導き出すことによって実現しました。そして、今日の箇所ではマナを与えることによって答えているのです。これらの答えは神の恵みの表れなのです。 神が私たちに与えようとしている恵みとは何でしょうか?今日の箇所ではマナという具体的なものが出てきていますが、そのような目に見えるものではありません。それは一つの結果的なものなのです。 根本的な恵みとは、命が与えられ、神によって生かされているということです。私たちはそれぞれに勝手な恵みを求めてしまう事があるかもしれません。しかし、神によって生かされ、命が与えられているという、根本的な恵みに勝るものはありません。 自分勝手で、不平や不満ばかりを言い、恵みを与えても、のど元過ぎれば、すぐに忘れてしまうような、恩知らずで、薄情な人間に対して、神はなぜ命を与え、生かしてくださるのでしょうか。それは、神によって創られ、神の愛の対象として創られたからなのです。愛という関係性の中で、共に生きることを望んでいるのです。 【生かされる人】 このような恵みは誰に与えられるのでしょうか?それはすべての人に与えられているのです。しかし、すべての人がその事に気付いているかというと、気付いていない人もたくさんいるのです。そういう意味で自覚的に恵みを受ける人と無意識に受ける人がいるのです。 最初にイスラエルの人々は食べ物がなくなってしまったことについて、モーセに不平を言いましたが、本来、神の計画の内にあるのだから、神に訴えるべきだと言いました。不平を言うのは良くないことだと思いがちですが、神に対してならば、言っても構わないのです。そして、それは神への叫びとして受け止めてくださるのです。 そして、不平というのは角度を変えてみるならば、願いと捉えることもできます。つまり、恵みを自覚的に受け取るというのは、神に願うことです。神に願わなければ、誰があなたの願いを叶えてくれるのでしょうか。自分で叶えることができるほど、私たちは力を持っているでしょうか。それこそ、人間の傲慢なのです。 また、イスラエルの人々は、天から降ってきたマナを拾って食べました。神からの恵みを自覚的に受け取ったのです。もし、遠慮して受け取らなければどうなったでしょうか。21節に書かれているように日が昇ると消えてしまうのです。すべての事には時があります。恵みは与えられている間に受け取らなければ、取り去られてしまうのです。 反対に恵みを無意識に受ける人もいます。そういう人には確信がありません。つまり、すべてが不安なのです。なぜこんな恵みが与えられているのか分からない。だから、いつか取り去られるのではないかという不安があるのです。 私たちには、神の恵みを自覚的に受け止め平安を得る事と、無意識に、受けている事にすら気づかずにいて不安な毎日を過ごす事とを選ぶ選択権が与えられているのです。 【第一にすべきもの】 神は私たちに生きる目的と歩むべき道を用意してくださいます。しかし、その道は、私たちに都合の良い事ばかりではありません。だから不平を言ってしまう事もあり、それも許されているのです。 16節を見ると、一人一日1オメルのマナを集めなさいと書かれています。主の祈りにも「日ごとの糧をお与えください」とあります。私たちが生きるためには食べるものが必要なのです。そして、このマナとは食べ物だけに限定して考えるのではなく、神によって与えられる恵みすべてであると捉えることもできます。 18節を見ると、ある者は多く、ある者は少なく集めたが、それらを量るとちょうど良かったと書かれています。人と比べるならば差があるように感じるかもしれませんが、神の尺度は、その人にちょうど良いように量られているのです。 また19節では、朝まで残しておいてはいけないと書かれています。自分の必要以上にため込んではいけないのです。必要以上に集めたマナはどうなったでしょうか。虫が付き臭くなってしまうのです。 人間の欲によって、必要以上に集めた恵みや富は腐ってしまいます。私たちの周りを見回すと、そのように腐ってしまった恵みや富を大事に抱えている人を見つけることは難しくないように思います。 マタイ福音書6章33節に「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」という有名な御言葉があります。神の国と神の義を求め、それらを第一にするならば、神はそのような人を放っておくはずがありません。 真剣に御言葉に従い、御言葉を生きようとするならば、すべての不安から解放され、神が用意される平安の中に生きていくことができるのです。 祈 り 讃 美 新生548 力強き主よ 導きたまえ 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ(A) 祝 祷 後 奏