聖書 詩篇23篇1~6    宣教題 憩いのみぎわ  説教者 中田義直

 今日、私たちは先に召された方々を覚える時を守っております。この名簿に記されていますのは、市川大野教会の教会員として亡くなられた方々です。しかし、ここにいる方々の中には、愛する者、親しい者との死別を経験されている方もいることでしょう。

 死による別れ、そこには、深い悲しみがあり、今もその痛みを感じながら日々の生活をお送っておられる方もいらっしゃるでしょう。死によってもたらされた別れは、ある意味で決定的な別れと思われています。しかし、イエス・キリストはご自身の死と復活を通して死は終わりではないということを私たちに示してくださいました。神のみ国、天国における永遠の命とそこでの再会という希望を私たちは与えられているのです。

 市川大野教会では、毎月第一日曜日に、主の晩餐式を守っています。この主の晩餐式を通して、主なる神様に対する私たちの罪を取り除き、赦しを与えるためのイエス・キリストの死を思い起こします。そして、それと共にこの主の晩餐式は天の御国におけるキリストと共なる食卓の先取りといわれることがあります。

 今日、私たちは、先に召された方々を思い起こし、その地上での生涯をとおして共に歩んだ日々、そして、その歩みの中でのさまざまな思い出を思い起こすとともに、約束されている天の御国での再会へと思いを向けるのです。

 私たちにとって、生きている者の場所と死んだ者たちとの場所は行き来することのできない断絶された場所ですが、主なる神様は生きている者の場所でも、亡くなった者たちの場所でも等しく主なる神なのです。唯一の神は、生きている私たちにとって唯一の神であるように亡くなった者たちにとっても唯一の神なのです。

 詩篇23編の作者と伝えられているダビデは、イスラエルの王となる前、野で羊を飼う羊飼いでした。ですから、この詩篇23編にはそのようなダビデ自身の経験が反映しているといわれています。「たとえ死の影の谷を歩むときも、災いを恐れません」とダビデは記します。そしてそれは、「あなたの杖、あなたの鞭が私を慰める」からだ、といいます。杖や鞭は羊飼いが羊を守り、導くための道具です。群れから離れそうになった羊、迷い出てしまいそうな羊を見つけると羊飼いは鞭でたたいたり、杖で小突いて羊を群れに戻します。そのようにして、神様は私たちを憩いの水のほとりに導き、主の前に設けられた喜びの食卓へと私たちを招いてくださいます。そして、そこはかつてマルティン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と語ったメッセージに示されている食卓の様子にも重なるのではないでしょうか。

 キング牧師のメッセージから、一部を抜粋して紹介させていただきます。

「私には夢がある、それは、いつの日か、この国の国民が立ち上がり、「われわれは、すべての人間は平等に造られいることを自明の真理とみなす」というこの国の信条を真の意味で実現させるという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

 私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。今日、私には夢がある。私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。今日、私には夢がある。私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。」(原文より一部を抜粋しました)

 私たちは先に召された方々との主の前での再会を信じます。そして、「主の祈り」の中で「御心が天になるように、この地上でもなりますように」と祈る私たちは、すべての人々を分け隔てなく食卓に招いているキリストの福音に立ち、神の愛による招きの言葉を語り伝えてまいりましょう。

 

ー祈り-

 主なる神様、この主の日、あなたに呼び集められ、礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

 主よ、今朝、私たちは、あなたのもとのに召された方々を覚える時を持っております。あなたは、私たちを救うためイエス様を十字架の死に引き渡さ、三日目の復活により救いを私たちにお示しくださいました。この世にあって限りある命は、永遠の命へと変えられ、神の御国の民として歩むこと、天の国籍を私たちにお与えくださいました。

 主よ、私たちの地上の命には限りがあります。それゆえ、私たちには死別の悲しみがあり、苦しみがあり、嘆きがあります。しかし、あなたはその嘆き、悲しみ、苦しみを超える再会の希望を与えてくださいました。約束の日、主の御許にみなが集められ、その憩いの水のほとりで主にある喜びの交わりに連なる日を信じ、希望のうちを歩む私たちでありますように。

  この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

 

 

ー聖書- 詩篇23篇

23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。