「権威ある方」 マルコ福音書1章21~28節
宣教者:富田愛世牧師
今日は「権威ある方」というタイトルをつけましたが、皆さんは権威という言葉から、また権威ある方というとどのようなことや人を連想されるでしょうか。
たぶん一般的には、自分が動くのではなく、どれだけたくさんの人を動かすことができるかということが、権威や権力を現わす時のバロメーターだと思います。
今、私たちはマルコによる福音書を読み始めていますが、ここに登場するイエスの姿は、一般的な権威ある者の姿からは程遠いものではないかと思うのです。
ナザレの村やガリラヤ湖の周りを歩き回り、気さくに漁師に声をかけたりしているわけですから権威ある人というより、フーテンの寅さんのような人を私はイメージしてしまいます。
今日の箇所では、カファルナウムという具体的な町の名前が出てきます。何故でしょうか。有名な町だったからでしょうか。
一昔前、ヒルズ族という言葉をよく耳にしました。六本木ヒルズで仕事をすると何となく、ステータスがあるように感じるようですが、カファルナウムもそういう所だったのでしょうか。
残念ながらそうではないようです。この町にはそんなステータスはまったくありませんでした。
そうではなく、イエスが福音を語る時には、漠然と語ったのではないということを現わしているのです。
漠然と誰でもいいから、聞きたい人は聞いてくれという姿勢で語っているのではありません。カファルナウムという町に住んでいる人を見て語られるのです。
イエスの眼差しは、いつもひとりの人を大切にし、しっかりと見つめていました。イエスの姿とは、杓子定規に正論を語るのではなく、そのひとりに分かるように、その人の持っている言葉を用いて語られるのです。
【汚れた霊に取りつかれた男】
そんなイエスの前に現われたのが「汚れた霊に取りつかれた男」でした。この人は会堂にいて、イエスに向かって叫ぶわけですが、なぜ会堂にいたのでしょうか。
いくつかのパターンが考えられると思います。一つは、イエスの噂を聞いて、癒してもらうために来ていたということです。
しかし、それならイエスが会堂に入ってきてすぐに願い出ていたと思いますので、この仮定は却下です。
次に考えられるのは、普段は何もなく、暮らしていたということです。汚れた霊がついていたけれども、普段の生活の中では何の支障もなく生活できた、しかし、イエスの言葉を聞いたことによって、この人の中で回心の気持ちが起こされ、内側にあった「汚れた霊」がその気持ちを拒むために出てきたということです。
私はこのパターンが自然ではないかと思うのです。
そして、この人はイエスに向かい自分のことを「我々」と表現しています。自分を表すならば「私」で構わないかもしれませんが、厳密に考える時、自分の中に良い自分と悪い自分というものを感じることがありませんか。
こんな事を言ってはいけないと思っているのに言ってしまったとか、やっちゃいけない事は重々承知なのだけれどやってしまうことがないでしょうか。
注意しなければならないのは外側に現れる現象で判断するのではなく、心の中に様々な葛藤があり、そのバランスが崩れる時、他人から誤解を受けるような言動を起こしてしまうという事を理解することなのです。
ここで語られる汚れた霊とは、このように人の健康な状態を肉体的にも、精神的にも、霊的にも破壊するものなのです。
【汚れた霊を従わせる】
イエスがこの人に向かって「黙れ、この人から出て行け」と命じると、汚れた霊はこの人から出て行きました。
ここでイエスの権威というものが明らかにされたのです。24節で、汚れた霊につかれた男が「ナザレのイエス」と語りかけ、最後にはあなたが「神の聖者だ」と結んでいます。
パレスチナ地方では、名前は重要なもので、その人の人格を表していると考えられていました。そして、相手の名前を知れば、それを支配することができると信じられていたのです。
ですから、この汚れた霊は「ナザレのイエス」と名前を呼ぶことによって、イエスの力を制することができると思ったのでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。そして、汚れた霊はイエスを「神の聖者」と呼ぶのです。汚れた霊はハッキリと力関係が分かっていたのです。神の側に属するものにかなうわけがないと言うことを、汚れた霊は知っていたのです。
周りで見ていた人たちはどう思ったでしょうか。汚れた霊がイエスの名を呼んだ瞬間、イエスが負けると予想したはずです。
しかし、結果は反対で、名前を呼んだ「汚れた霊」の方が逃げていったのです。
はじめに会堂でイエスの言葉を聞いて、その教えに驚いた人たちは、今度は「汚れた霊」が逃げていくのを見て驚いているのです。
ここに「驚く」という言葉が2回出てきますが、それぞれ別の言葉が使われているそうです。
はじめの「驚く」はビックリするという意味の言葉で、次の「驚く」は畏敬の念を抱く、畏れるという意味の言葉だということです。
すごいことを語る人がいると思って驚いた人々は、その言葉がただの言葉ではなく、行動を伴った言葉だったことを目の当たりにし、畏ろしいほどの権威、本物の権威というものを感じたのです。
【権威ある、新しい教え】
人々はイエスの言葉と律法学者たちの語る言葉とを比較して考えていました。
難しい言葉を用いると、権威があるような錯覚に私たちは陥ってしまうことがあります。そんな人々にとってイエスの語る言葉は本当に衝撃的な言葉だったのです。
15年ほど前にインターネットのメールマガジンに、日刊「ビジネス発想源」というものがあり、そこにとても興味深い文章があったので、ここで紹介したいと思うのです。
「意識の違いを見た」
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「僕は大学生の時に経営学科にいたので、経営学を分かりやすくかみ砕いて説明したホームページを個人的に作って公開していたことがある。
どれぐらい分かりやすいかというと、イヌやネコが出てきて「株式会社を作るニャン」とか言うぐらい。
—中略—
卒業間際の僕に、ある女子大学の教授からメールが来た。「弘中先生のホームページはとても分かりやすいです。できればこのページを印刷させて頂き、ゼミの学生たちに教材として配らせて頂きたいのですが」
みんな、どうも僕のことをどこかの先生と思っているらしい。まだ大学生であることを告白し、「お役に立てるのであればぜひご自由にお使い下さい」という返事を喜んで出した。
数週間後、その教授から感謝のメールが届いた。「ゼミで利用させて頂いたところ、とても好評でした!終わった時に学生のみんなに感想を書いてもらったので、Microsoft Word にまとめました。参照して下さい。22人の学生のうち21人が喜びの感想を書いています」と、Word文書が添付されている。さっそく拝見すると、学生たちの喜びの感想が並ぶ。
「イヌ」「ネコ」「ウサギ」「ブタ」の4匹が会社を作ろうとし、山の「仙人さま」が会社の仕組みや利益の仕組みについて解説をしながら4匹が学んでいくという内容なのだが、その教授は学生たちに、それぞれの登場人物たちのセリフを劇のように割り当てて読ませて使用したそうである。
「イヌを担当しましたが、とても分かりやすかったです!今まで大学でいろいろな経営学の本を読まされましたが、ここまで頭に残るほど理解のできるものはありませんでした」
「担当したブタ君のセリフはちょっと恥ずかしかったけど、経営についてとても分かりやすく学ぶことができました。これまでの授業で一番素晴らしい授業になりました」
などなど、今までにない授業形態だったからなのか、それとも今までにない分かりやすかったからなのかは分からないが、大学生たちからとにかくスゴイ褒められようだった。
22人のうち21人は「死ぬほど分かりやすかった!」とベタ褒め。
しかし一番最後に、そうでない学生の感想文があった。それを書いたのは、中国から来た留学生だった。そのクラスの中でたった一人だけの留学生である。彼女はこのように書いていた。
「私は、こんな幼稚なことをするために日本に勉強に来たのではありません」
意識の違いを見た。
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というものです。
難しい言葉をただ語ればいいのではないし、易しくすればそれでいいということでもありません。
イエスの語る言葉は難解でもなく、幼稚でもありません。もし私たちがそれを聞いて、難解だと思うなら、自分自身の不勉強な点を思い起こす必要があります。そして、幼稚だと感じる時は、傲慢さに気をつけなければなりません。
そこで語られる言葉は、ひとりの人を見つめ、その人に必要なものを与えてくれる言葉なのです。必要なものを与えてくれるというのは、抽象的なことではありません。本当に与えられるということです。
聖書の御言葉に真剣に向き合っていくならば、そこにひとりの私を、あなたを見つめておられるイエスに出会うことができるのです。
どんなに醜いものが心の中にあったとしても、イエスにとっては醜さなんて関係ありません。汚れた霊を追い出されるイエスは私たちの心の醜さに驚かれることなく、かえって哀れみをもって癒してくださるのです。